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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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和算「最上流宗統派の系譜」から⑲

 今回の視点で整理していくと、師匠を頂点とするいわば家元制的な見え方が中心になる。特に、奉納された算額の確認では、その家元の成果公開のようにも感じられる。
 ただ、和算の場合、たとえ家元制的な見え方ではあっても、旦那衆の道楽芸というふうな見え方とは少し違う。その思考法が、実際の日常生活での問題解決に役立つという側面があるようなのだ。

 例えば、最上流二伝渡辺治右衛門一氏は、二本松藩藩校の講師として迎え入れられるのだが、「和算『最上流宗統派の系譜』から⑤」で整理したように実務的な仕事もしているようなのだ。
 藩主は、岳温泉が山崩で崩壊するという緊急事態に対応すべく、彼に「十文字岳温泉」引湯工事の引き湯設計に当たらせている。また、次の「和算『最上流宗統派の系譜』から⑥」で整理したように、その子息達は砲術師範としてとりたてられている。

 佐久間派の話でも、実務的な仕事とのかかわりを読み取ることができる。
 田村市県指定文化財「重要文化財(歴史資料)」の「佐久間庸軒和算関係資料」によると、佐久間纉氏は、測量術を最上流の高橋吉右衛門氏に学び、洋算・航海術・天文等も研修を進めていたということだ。
 また、氏は万延元年(1860)には、三春藩士に登用されて、藩校明徳堂教授となるのだが、明治元年(1868)には、三春藩地図取調方などの新政府の絵図編纂御用も勤めることになっているということだ。

 「鹿島」の「鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~」のページに、「明治時代の水準器―福島県の旧家から発見された測量機を追って」は、佐久間派の和算について、実学としての側面から整理されたものとしてとらえることができるのではないかと思う。
 https://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki48/index-j.html
 このまとめで、和算の実務的な側面として、地図や暦などの計算で実践に役立てるものが数多いとする。他に、農業用水のための水車の設計、幕府天文方、土木工事、年貢の換算、堤防、水路などさまざまな局面で地元の農民や藩の行政に協力していた例があるとする。
 その上で、伊藤直記氏も佐久間庸軒氏らと共に、藩の行政あるいは地元の農民の力となり尽力したとして、元治元年(1864)8月には三春藩より苗字帯刀を受けたと紹介する。

 前回、幕末から明治にかけての福島近郊では、川俣、立子山村、金沢村、松川村、杉妻村、荒井村、土湯などを中心に、最上流宗統派の和算家は勿論、佐久間派の和算家も活発に活動していたらしいとした。
 この地域では、後世に名を遺す程の目立った活動ではなかったかもしれないが、同じ様に地元の農民の力となり尽力していたということがあったであろうことは想像できる。
by shingen1948 | 2018-11-13 10:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)