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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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和算「最上流宗統派の系譜」から⑱

 算額情報を拾うことで確かめようとしたことは、空振りが多かった。しかし、思いもかけない情報に出会う事もある。

 例えば、「大阪天満宮 文化元年3月奉納者最上流渡辺一門人二本松住完戸政つね」とあるのをみつけた。問題の類別にかかわる資料だったと思うが、定かではない。
 「最上流渡辺一門人二本松住」とのことなので、今回整理の「最上流三伝宍戸佐左衛門政彝氏」であることはほぼ確実だ。
 この方は「和算『最上流宗統派の系譜』から⑪」で「二本松市史」と散歩資料をもとに整理しているが、この情報はみかけていなかった。
 ここで、この方は没年が元治元年(1864) 2月で、享年84歳だと確認しているので、その逆算で生誕安永9年(1780)を推定すれば、文化元年(1804)は24歳頃の話ということになるようだ。
 「古今名人算者鑑」で西幕下14枚目に位置されるのは、文政9年(1827)なので、20数年前の話ということになるようだ。最上流二伝渡辺一氏の情報とも重ねると、山崩の岳温泉の引湯工事が1824で、完成が1825なので、その20年前の話ということだ。

 今回は最上流宗統派の系譜の確認なので、得られた情報からできるだけ佐久間派の情報を削除して整理するようにしてきた。算額情報でも同じようにしてきたのだが、その事によってかえって佐久間派の存在を意識するようになったこともある。

 例えば、「田村郡三春町龍穏院 明治26年(1893)2月 佐久間派算法(佐久間派20名)奉納」の三人目に、「岩代国信夫郡荒井村佐藤刻治撰」をみつけているが、省略している。
 この方は、「和算『最上流宗統派の系譜』から③」で整理した方だと思う。
 その師は、「佐久間文庫 由来」に和算の最後の花を咲かせた一人として紹介された佐藤元竜田氏と想像した方だ。碑文によると、この方は、その後、田村郡佐久間佐久間纉の塾に5年間入門し最上流の奥義を極めて、村に戻って小沢軒と号して私塾を開いたとのことなので、矛盾しない。
 「田村郡三春町龍穏院 明治26年(1893)2月 佐久間派算法(佐久間派20名)奉納」には、他にもう一人の荒井村の方の名が見える。
 その九人目に「岩代国信夫郡荒井村佐藤菊太郎撰」とあるのだ。ただ、この方を荒井村の散歩資料からは拾えない。
 「磐城三春太神宮奉納略図」でも、岩代信夫郡・伊達郡・安達郡の方々の名が確認できる。

 近隣の算額情報に「斎藤利七」という名はよくお見掛けしたが、こちらも省略している。
 この方は、川俣町の散策資料で確認できる。大綱木町の佐藤正二郎氏の子で、嘉永五年に同じ村の弥吉氏の許へ妻子共に養子相続して、斎藤利七と改名したとのことだ。元治元年に佐久間纉氏に入門し、明治13年に許されたという指南許状も資料として確認できる。
 川俣町の散策資料には、その弟子の菅野豊蔵氏も紹介される。
 明治13年に斎藤利七門人として佐久間纉氏に入門、後年自ら「庸軒派算法菅野社中」を結成したとのことだ。

 幕末から明治にかけての福島近郊では、川俣、立子山村、金沢村、松川村、杉妻村、荒井村、土湯といった二本松藩領との境付近を中心に、最上流宗統派の和算家は勿論、佐久間派の和算家も同様に、あるいはそれ以上に活発に活動していたらしいということになるようだ。
by shingen1948 | 2018-11-10 10:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)