地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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和算「最上流宗統派の系譜」から⑫

 前回、宍戸佐左衛門政彝氏の算数の実力を示すのに、紹介されるままに「文政9年版『古今名人算者鑑』では西幕下14枚目に位置される」とした。しかし、これでは素人の散策人としては、どんな実力なのかが分からない。
 それで、ここに次の情報を付け加える。

 このランキングで、最上流二伝渡辺治右衛門一氏は、東前頭三枚目とされているとのことだ。その中で、弟子である宍戸佐左衛門政彝氏が西幕下14枚目にランキングされたということだ。
 ここにランキングされるという事がその位名誉な事なのだと読み取るべきだということが分かる。

 この辺りまで、二本松の資料で確認したことだが、ちょっと気になったことがある。
 それが、次のような渡辺東岳氏の門弟紹介だ。
 「二本松藩領の宍戸佐左衛門、鈴木〇〇〇、福島の丹治重治、三春の佐久間庸軒等々……」とある「福島の丹治重治」という表現だ。
 今回の整理の和算の系譜を「金谷川の今昔」に紹介される「最上流宗統派の系譜」というのをそのまま使わせていただいている。それとのかかわりだ。
 
 確かに、丹治重治氏が住した金沢村は、現在は福島の行政区だ。
 しかし、ここは幕末には二本松藩領であったはずなのだ。明治に入って、二本松から一時期川俣の管轄になり、それから福島の行政区になったという経緯のはずなのだ。
 二本松藩領の宍戸佐左衛門氏の門人である丹治重治氏は幕末から明治にかけての方であり、二本松藩領の金沢村だったとみてよいのだと思う。
 「宍戸佐左衛門、鈴木〇〇〇、丹治重治」が、二本松藩領との範疇で捉えたい。

 次の五伝尾形氏、六伝長沢氏の浅川村も幕末は二本松藩領であったが、その活躍期には行政区が福島に変化しているので、福島としてもよいのだとは思うが、その系統としては、少なくとも六伝の長沢保斎氏までは二本松領の系譜とみてよいのだと思う。
 七伝の長沢辰蔵氏は杉妻村黒岩なので、確かに元々の福島ではある。これだって「最上流宗統派の系譜」のままで支障はなさそうに思う。

 さて、二本松地域の資料の中に、最上流五伝丹治重治氏の幼少時のお師匠さんである野地弥源太豊成氏についてやや詳しく紹介されているのも見つけた。
 この方が安達町の下川崎に住し、野地観音堂に算額を奉納していることまでは知っていた。この資料は、その算額が二本松市指定文化財になったことを広報するもので、次のように紹介される。

 野地豊成は、文化元年(1804)古城内に生まれる。
 後、二本松城下の松岡で蚕物を扱う商家「柏屋」を営むかたわら、最上流和算家でもあった宍戸佐左衛門の門人となり、和算の普及に尽くした。
 
 野地観音堂に算額を奉納したのは、嘉永3年(1850)3月で、その額面には、円と楕円との接触の問題二問が彫り刻まれ、以前は図形の部分に白色と緑色の顔料で彩色されていたが、現在は剥落しているとのこと。
 その形状は、ケヤキ材一枚板の周囲を額装してあるものなそうだ。その額寸法は、縦40.5㎝、横56.1㎝、実寸法 縦32.3㎝、横48.4㎝ とのことだ。 
 これが旧安達町に残る算額としては最も古いという事で、昭和53年(1978)に有形文化財歴史資料として指定されたとのことだ。
 その安達町が二本松市に合併した事に伴い、二本松市指定に変更されたということの後方のようだ。
 なお、氏は慶応2年(1866)に没し、その戒名は「楽算院鉄山淨堅居士」だと紹介される。
 
by shingen1948 | 2018-10-27 15:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)