地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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和算「最上流宗統派の系譜」から⑧

 旧旧ニ本松街道近くで、和算家渡辺治右衛門の墓という標識を見つけたことがあった。
 「土湯探索余談(2007/9/29)」の記事でそのことについてふれたが、この方が、今回整理している二本松藩士最上流二伝渡辺一氏だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6236962/
 この時には、その渡辺一の墓のある墓地らしいことまでは分かったのだが、渡辺一の墓そのものは分からないという事で、そのままになっていた。

 二本松市史の情報から、このことにかかわりそうな情報を確認しておく。

 まずは、二本松藩士最上流二伝渡辺一氏と土湯村との関りについての確認。
 氏は、保5年(1785)に土湯村の湯舎会津屋で生を受けている。
 そして、ここで、湯治に来ていたと思われる須永通屋(埼玉県)という方から和算を学んだとのことだ。これが19歳の時というから文化1年(1804)年頃だろうか。

 最上流の祖となる会田安明氏との出会いもここらしい。会田安明氏が、山形から江戸に戻る途中に、土湯に立ち寄ったとのことだ。この頃には、渡辺氏の名も奥羽だけでなく江戸にも知られるようになっていたとされる。
 ここで、渡辺氏の出題した問題を、会田氏は思ったよりも簡単な方法で解いてしまったという。それに感服した渡辺氏は、彼の弟子になるべく江戸に出たとのことだ。そして、最初の門人になったとのことだ。
 23歳の頃とのことなので、文化5年(1808)頃ということになるだろうか。

 この会田氏との出会いの話は土湯の散策資料にもあったのだが、そのままにしていた。その確からしさが伝説に近い話なのだろう思ったからだ。
 しかし、市史によれば、この事は渡辺氏の著書に書かれている事なのだそうだ。

 この後、氏は江戸に登るが、やがて土湯に戻る。
 この頃には、度々二本松に出て和算を教えていたようだが、文政2年(1819)には、二本松藩に召抱えられる。

 ここからが、渡辺一の墓があるらしい墓地とのかかわりも意識した情報の確認だ。
 氏は、二本松藩に召抱えられこの時に、嫡男を土湯に残し、後に二本松藩武衛流砲術家となり家禄を継ぐ二男未分氏を連れて着任したとのことだった。
 ならば、土湯の渡辺家を嫡男が継いでいるはずで、渡辺一氏の墓が土湯にある可能性はあるということだ。
 氏は天保10年(1839)72歳で亡くなるようだ。墓碑を探すなら、その法名もヒントになりそうだが、それが東嶽院不朽算額居士とのこと。
 ただ、二本松の情報では法輪寺墓地に墓碑があるということだが、こちらもあり得る情報だ。
by shingen1948 | 2018-10-21 09:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)