人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

和算「最上流宗統派の系譜」から⑥

 前回は、「十文字岳温泉」引湯工事の引き湯設計が、二本松藩士最上流二伝渡辺一氏の仕事であることの情報確認をした。
 今度は、「日本古典作者事典」に「息子未文は砲術家、孫の孫市は武衛流砲術師範」とあったことの情報を確認する。

 「二本松市史」の「幕末の二本松藩砲術の実態」の前項で、他の武芸よりも砲術が足軽芸として一段低く見られていた風潮が解説される。更に、その本項に入って、二本松藩の伝統的な砲術について解説された後、幕末に新たな流派が加わったとして次のように解説される。
 「二本松砲術師範として、さらに文政年間「武衛流」が加わることになる。文政2年(1819)、二本松藩は最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)を召抱える。治右衛門の子未分は江戸に登り、武衛流砲術の渡辺次左衛門の門に入り、奥義を極め師範代となり、帰藩後は砲術方として教授を始めたと見てよい」

 「息子未文は砲術家」であることの確認としてこちらの解説を引いたが、興味深いのは、和算と砲術の関係についての紹介だ。
 この時代、一流の和算家の多くはすでに弾道学や爆圧力の計算をてがけていたといわれているそうだ。渡辺治右衛門氏も、砲術修業の功をなした息子に算法書各所から必要事項を抜抄して「砲器製作算法」と名付けて与えたとある。
 未分氏の深い砲術力学の知識は、砲術の師から未分氏に砲筒の割合、筒圧、筒玉などを相談する書簡が残っているという事などで確認できるとのことだ。この知見の深まりには、和算家渡辺治右衛門氏のおかげもあっただろうことが伺える。

 ここまででは分かりづらいのは、家系的な繋がりだ。結論的には、「治右衛門の子未分」とされる未分氏は、治右衛門氏の二男のようだ。
 それが分かるのは、次のような事情説明だ。
 
 砲術の師から未分氏への相談の書簡など二本松藩の幕末の砲術に関する資料が残るのは、「郡山市大槻町『安斎家文書』」とのことだ。
 何故この安斎家にそれが残るのかということだが、大槻下町名主となる安斎太郎右衛門氏は、安斎家に婿入りした未分氏の兄の子なのだそうだ。
 つまり、文政2年(1819)に最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)が二本松藩に召抱えられ時に、嫡男を土湯に残し、二男未分氏を連れて着任したということだ。その二男未分氏が家禄を継いだ二本松藩武衛流砲術家ということのようだ。
by shingen1948 | 2018-10-18 10:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)