地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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和算「最上流宗統派の系譜」から④

 「西地区史跡文化財」の案内図に和算にかかわる史跡が4か所プロットされている。
a0087378_239388.jpg 今回「最上流宗統派の系譜」で整理した方々とのかかわりでふれたのが、このうちの「佐藤刻治碑」と「佐藤元竜碑」だ。
 ただ、「佐藤元竜碑」の碑文は確認できていない。また、ここで「佐藤刻治碑」とする碑を確認したとするのは、「福島のいしぶみ」では「佐藤刻治翁寿蔵碑」として紹介されている碑の碑文だ。

 佐藤刻治氏は、結局は田村郡佐久間佐久間纉の塾門人ということになり、最上流佐久間派ということになるのだろうと思う。しかし、それは佐藤元竜田氏が修天元術及天生法の修得を認められた上での話だ。その佐藤元竜田氏に認められた時点で、形式的にも算法印可を受けたかどうかは不明なのだが、その時点では最上流宗統派の系譜に近い認められ方という事になるのだろうと思うのだ。
 和算愛好にかかわる情報を探ると、佐藤元竜田氏の門人が明治35年(1902)2月に飯坂の八幡神社に奉納した算額が現存するとのこと。また、佐藤刻治氏が昭和5年(1930)に地元白山寺に奉納した算額も現存するとの情報も見る。どちらも確認はしていない。

 ここからは、和算「最上流宗統派の系譜」からということからは余談になる。
 「西地区史跡文化財」の案内図にプロットされる「阿部太七寿蔵碑」については、荒井村の散策時にふれている。
 この碑は、「土湯会津道を歩いてみる⑭~和算家と学校を意識する」で張り付けた写真に写る碑だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/21884427/
 この方の碑は「福島のいしぶみ」では「阿部(長安)翁寿蔵碑」として紹介されている。
 この時にもふれたが、この方は、数術を鈴木某氏に学んだ後、岳谷佐久間先生門でも数年学んでその奥を極め、家に戻って余暇に村の子弟を教育した方であることが、「福島のいしぶみ」で紹介される碑文からも確認できる。
 この方も結局は最上流佐久間派ということになるのだろう。ここでも、その研鑽途中の師が気になる所だ。
 この案内板で「鈴木梅次郎寿蔵碑」とされる方が、その鈴木某氏でないのかなと思うが、どうだろうか。この方の碑は、「福島のいしぶみ」では「深見(鈴木甚右衛門)翁碑」と紹介されている方だと思う。
 この方の碑が建つのが明治15年で、阿部太七寿蔵碑建碑が明治31年なので、矛盾はなさそうにも思う。

 この「深見(鈴木甚右衛門)翁碑」の碑文を確かめると、この方は文政5年生まれで、下村の須田信崇氏を師とするらしいことが分かる。
 その後、岩瀬郡吉田東光氏の門弟となるが、途中師が亡くなられたので、田邑郡の佐久間纉の門で学ばれるということだ。この方も、結局は佐久間派ということになるようだ。
 研鑽途中の師とされる下村の須田信崇氏が、最上流かどうかは分からない。

 地域情報で紹介される和算家はここまでだが、伊達地方の和算家情報中にこの地域近くの別の和算家が紹介されている。
 寛永6年に、信夫郡山田村の奈良輪甚内氏と土湯村の二階堂藤蔵氏が、伊達郡塚原村の三品丈之進常祐氏とともに渡辺一の門人とのことで、二本松の亀谷の坂町観音堂に師渡辺の追善供養の算額を奉納しているとの情報だ。
 この地域の和算文化の底辺の広さにかかわる情報として受け止めてよさそうに思う。
by shingen1948 | 2018-10-09 10:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)