和算「最上流宗統派の系譜」から~(尾形) 曠斎壽蔵碑?
2018年 09月 30日

ただ、「福島のいしぶみ」を確認すると、船橋観音堂境内の尾形曠斎氏の石碑の篆額は、「曠斎壽蔵碑」となっているということだ。
それをヒントにこの写真を眺めると、右から二つ目の文字が「斎」の字が読めるように思う。そして、その右が「曠」であってもよさそうな気がするし、その左の文字列が「壽蔵碑」だったとしても矛盾はなさそうだと思うといった程度の確からしさはある。
この写真から碑文を読み取るのは不可能だ。次の機会に新しいデジカメで碑文を撮ってみて、「福島のいしぶみ」の碑文と照らし合わせてみたい。
そのために、「福島のいしぶみ」の碑文をメモさせていただいた。その中からの確かめ。
尾形曠斎氏については、その二段目に以下のように紹介される。
今玆甲午 翁齢六十 門人胥議 将建立碑 持所状群行
懇余経緯之曰 翁名英悦 通称貞蔵 号曠斎 尾形氏 信
夫郡金谷川村大字浅川人 其先出尾形若狭
※玆=ここに
その方が、最上流宗統派五伝となる経緯については、次の段に以下のように紹介される。
翁少学算数 覃思専攻数十年 得其奥旨 所謂最上流是也
会田安明以是伝之渡辺一 一以是伝之宍戸政彝 政彝以是
伝之丹治重治 重次伝是伝之翁 翁性撲厚 不屑々乎貨殖
而資産頗贍 以其倹有法也
※覃=ふかい=深くひろい、屑々乎貨殖=こせこせする(「福島のいしぶみ」の注)、頗=すこぶる、贍=たりる=とむ
ここでは、前回整理の最上流宗統派四伝「丹治」氏は「重治」となっている。
碑文確認のためならここまででいいのだが、次の段も引かせていただく。というのは、次の段に、すでに洋算が着目される時代になっても、和算に需要があったことが記されるのだ。ちょっと立ち止まって考えたいと思ったのだ。
生乎 焉 人排難解紛 村人毎有事之難処 就翁咨詢 翁
処之曲尽其心 是以郷里 翕然推服焉 数為村吏府労績
暇日 輙聚徒授数 諄々不倦 所著有算法詳解三百余巻
明治維新以来洋算行 厭旧喜新之徒 往々棄和算 而入洋
算 惟翁則不然 益鑽旧学 不肯趁時好 自非信之篤造之
深者
※咨詢=参考として他の機関などに意見を問い求めること、曲尽=きょくじん=ことこまかに事情を説きつくすこと、翕然=きゅうぜん=多くのものが一つに集まり合うさま、推服=すいふく=人を敬って心から従うこと(心服)、村吏=そんり=村役人、輙=すなわち、諄諄=じゅんじゅん=相手にわかるようによく言い聞かせるさま、不倦=ふけん=手を抜かずにしっかりと、不然=事実はそうではない、鑽=さん=物事を深く究める、趁 =したごう
なお、建碑は明治27年7月のようだ。