地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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和算「最上流宗統派の系譜」から~明斎先生(丹治庄作)碑④

 碑文は、以下のように建碑の経緯が続く。
 自分の興味は、その後に続く書と刻に移る。
 それ等を確認すると、この建碑事業のプロジューサーが気になる。自分は、その想像を頭においてこの建碑の経緯を読んでいる。

 嚮雖有厚幣以聘者以母老嗣幼辞而不就四方之士有負笈而入門者況於郷
 閭之子弟乎諄々教而不倦旁長漢籍撃剣余視余之学者明此則暗彼君則不
 然不啻通暁衆技治家也倹待弟子也信故家斉而弟子服焉人称為丹治氏之
 中興不亦冝乎嗣曰庄之助字重満号思斎温良端愨兼才学能継父志今玆君
 齢五十三門生欲建碑於信夫郡福島町鎮守稲荷郷社之側以酬其徳請文於
 余余與君相識有年於玆嘗感君之為人且嘉門生之志豈得謝之乎嗚呼君今
 而猶有此偉績百歳之後其美徳亦可想矣銘曰
  終始如一 三十余年 算海千仂 探珠索真
  発其未発 伸其未伸 偉業懿徳 親視其人

 明治二十一年十二月
  旭宇 新岡久頼書   布野義和刻

 ※旭宇 新岡久頼書

 この方は、弘前出身の有名な書家のようだ。弘化4年(1847)に江戸に出て寛永寺に寄宿して衆僧に書を教授した儒者なそうだが、維新後は清国を漫遊して明治17年に帰国し、東京下谷根岸に住んでいたという。
 この方に書をお願いする経緯は不明なのだが、それが想像できそうな情報を見つけた。
 旭宇新岡先生書「習字帖」の11冊が福島県学務課編纂で出版され、明治13年(1880)5月12日付け東京日日新聞にその広告が掲載されたようなのだ。
 出版所は東京本郷弓町の臨池社だが、その出版者は二本松町の太田長左衛門氏であり、福島県管内売捌人も同勘助氏とのことなのだ。

 ※布野義和刻

 「奥州街道:八丁目宿「眼鏡橋」のある風景④」で、信夫橋や松川橋の建設工事に、川俣町の布野氏が三春町の松本亀吉と共に参加していたことについてふれた。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237473958/

 ここで、「川俣町の文化財」の「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」情報に、布野氏の更に詳しい以下の情報があることを記した。
 「設計施工者は布野宇太郎義成,弟源六義和兄弟で、布野氏は上杉氏家臣の家柄でその祖は西根堰工事の功労者と伝えられている。兄弟は『ぷっちの宇太郎、字彫りの源六』とうたわれた当地方きっての名工で、宇太郎の作には信夫橋(眼鏡橋)、飯野新橋、金華山の灯台等がある」
 この兄弟の弟の「字彫りの源六」こと布野源六義和氏ではないかと想像する。

 ここに、以下の碑文の前段の情報を重ねる。

 丹治賜君碑
 福島県書記官正六位永峯弥吉題額 田嶋寛撰

 ※福島県書記官正六位永峯弥吉題額

 この方は、幕末の幕臣で以下のような経歴のようだ。
 天保11年(1840)駿河国駿府幕府代官属吏高橋古大夫の第三氏として生まれ、幕臣永峰家の養子となる。
 戊辰戦争では、旧幕府軍とともに脱走、箱館政権の会計奉行のもとで組頭を務め、兵糧・銃器の調達などに従事する。降伏後は、謹慎を経て静岡藩に復籍。
 廃藩置県後は、静岡県に出仕し、権大属、二等属、一等属、少書記官、大書記官を歴任する。
 1885年に、内務省に転じ内務少書記官に就任。以後、大阪府書記官、福島県書記官を歴任する。
 この碑建立は明治21年12月なので、この頃の話なのだろうと思われる。
 この方は、その後、1891年には宮崎県知事に登用され、1892年には佐賀県知事に転任し、明治27年(1894)に没する。

 そして、「田嶋寛撰」である。
 先の八丁目宿の散策で、元二本松藩士で幕末から明治にかけて八丁目宿とその文化圏にかかわった文化人として田嶋久敬氏について整理している。この方だろうと思う。
 これらの人たちとコンタクトを取って、県庁が所在する地の郷社に建碑する事業をプロデュースできるのはどなたかと考えると、散歩人の素人判断では、この方ではないのかなと勝手な想像をしたところだ。
by shingen1948 | 2018-09-27 10:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)