地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び八丁目宿へ ~西東広親⑨

 「西東薩摩」屋敷の位置確認の念頭操作で、何となくこの辺りの宗教的な、或は文化的な空気感といったようなものが感じられたような気になったところだ。
 そんな思いで振り返ると、そこに六地蔵道標が建っている。
a0087378_5745100.jpg 先に「八丁目宿の二つの追分~『米沢街道』と『相馬道』」として整理した時点では案内柱はあったが、説明の案内板はなかったと思う。
 この時は、この宿が奥州街道と米沢街道・相馬街道が交差するという交通の要になっているという視点での整理だ。ここも、八丁目宿石合町を過ぎて、青麻山を回り込むのに左折する道筋が奥州街道で、その地点が相馬道の追分になっているという観点で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7189745/

 この辺りの空気感を感じた後では、この道標が六地蔵の浮彫を施した六角石であることに視点が移る。
 新しく建った案内板には、その形状について次のように説明されている。

 「碑は高さ約1.5m、火袋には六地蔵が彫られ、円形の竿石には『従是南相馬道・従是西北往還道(南相馬・西北奥州街道)・元禄八年(1695)乙亥四月八日信夫郡八丁目施主杉内中兵衛政軌』と刻まれている」

 感じた空気感を形成する要素は、この道標が建った時代より新しい。その建立目的は、案内にあるように「地蔵の石仏は旅人の目印となり、旅人は旅の安全を祈った」のかもしれない。
 しかし、「八丁目家主一覧」の幕末は、この宿が二本松藩領である。そのことを思えば、ここが福島藩や川俣陣屋の領地と向き合う地点だったように思う。その意味で、その時代にはこの六地蔵は集落の入り口に立つという意味合いも付加されたように思うが、どうだろうか。

 なお、先の散策では、この地点を三叉路だった地点と見ていた。案内板にある昭和40年(1965)代初期に県道の改良工事で道幅が広げられたことに伴い、10m程南に移動されたという時点で四辻になったのだと思っていたところだ。
 しかし、案内では「六地蔵は、六道輪廻思想から四辻分岐点にあるのが通例とされている」とある。案内されない細い道筋もあったのかもしれないとも思う。
by shingen1948 | 2018-09-03 10:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)