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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び八丁目宿へ ~西東広親⑧

 奥州街道は、八丁目宿の石合町を過ぎると、左に折れて北に向かう道筋となる。
 ここはその曲がり角で、この道筋がその北に向かう道筋だ。
再び八丁目宿へ ~西東広親⑧_a0087378_5363559.jpg この空き地になっているところが、「八丁目家主一覧」で「地福寺」とされる辺りと想像したところだ。
 ちょっと気になるのが、「松川のあゆみ」の年表の天明4年(1784)に、「天徳山寿福寺を石合町に建てる」とあることとのかかわりだ。この年は天明の飢饉の翌年でもある。
 石合町には他にその寺らしきものもない。しかも「地福寺」とは一字違いだ。それで、この寺と重なるのかなと想像しているところだが、どうだろうか。

 昨日整理の写真で使用した大日如来堂は民家の後ろに写る赤い屋根の建物だ。
 左端に写る民家付近が、「八丁目家主一覧」で「明宝院」とされる辺りとの想像だ。
 
 「明宝院」以外は、他の手持ち散歩資料からの情報はないのだが、大日如来堂も地福寺も明宝院も互いにかかわりあっているいるような気がする。寺院としての見え方だ。

 「明宝院」には、他に地区の私塾という役割もある。
 住職は、平林宥京氏のお弟子さんという情報から、国学の私塾であることが想像できる。

 ここで、「松川のあゆみ」から平林宥京氏の経歴の概略を確認しておく。

 嘉永3年東置賜郡長手村梅祥院住職3男として生まれる。
 慶應元年置賜郡左沢村宝水寺で得度。
 明治5年八丁目村西光寺住職。
 明治6年教導職試補。
 (※「再び八丁目宿へ ~西東広親③」でふれたように、「再び八丁目宿へ ~西東広親③」で整理した教導職がかかわる。経歴に記されるのは事務見習)
 明治8・9年準訓導拝命(松川小)
 その後、大和国長谷寺入(8年)
 明治34年保原町長谷寺住職
 昭和12年遷化
 その弟子に、K宥範氏の他に水原竜積寺住職、金沢永仁寺住職等が紹介される。

 この「明宝院」の一軒置いた先には、神官の「西東薩摩」の和歌と国学を教える私塾があったということだ。

 今回の「西東薩摩」屋敷の位置確認のための整理で、この辺りの宗教的な、或は文化的な空気感といったようなものが感じられたような気になっている。
by shingen1948 | 2018-09-01 10:33 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)