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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び八丁目宿へ ~西東広親⑤

 「浅川、松川散策の写真メモから⑨~松川村道路元標」で、「信達二郡村誌」に「
村社『稲荷神社』は『北部稲荷に鎮座す』」とあることから、その所在を小字稲荷と推定した。そして、現稲荷神社の位置には、「(その稲荷神社の)遥拝所卯辰の間に面す(字中町に在り)東西5間半南北2間 明治八乙亥年九月十九日村社に列す」から、その遥拝所だったことを推定していたところだった。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237953658/

 今回、「松川のあゆみ」の年表を眺めていたら、明治33年(1900)に「稲荷神社本殿が字稲荷から中町に遷座する」と記載されているのをみつけた。先の推定に確からしさが増したので、現住所も確認すると、現まつかわ西幼稚園・現旧松川小学校応急仮設住宅付近が字稲荷のようだ。
 なお、その年表では、その翌年には字稲荷に天理協会松川宣教所が設立されたとある。

 西東広親氏が神官をつとめていた時代までの稲荷神社本殿は、間違いなく字稲荷にあったという確からしさが高まったことになる。

 その字稲荷の西の愛宕山が八丁目城跡だ。
a0087378_442414.jpg これは、その「八丁目城址案内図」だが、先に八丁目城跡を散策して整理した時の写真だ。
 ここに旧松川小学校がプロットされるが、そこが二本松藩領になった時代に代官屋敷があったということになるのだと思う。

 「松川のあゆみ」では、野地源蔵氏が描いた代官屋敷略図から以下のように読み取っている。
 代官屋敷が建つのが旧松川小学校あたり。
 そして、その同心屋敷が並んでいたのは盛林寺墓地の西から愛宕山に登る道を挟んで建っていたことが読み取れるという。その屋敷は南向きだったことや、そこにはもみの倉庫も建っていたことも分かるということだ。

 これらの情報を重ね合わせると、稲荷神社本殿は代官屋敷の敷地内に建っていたということになるようなのだ。

 西東氏の名乗りは、このこととかかわるのかなと想像が膨らむ。少なくとも二本松藩とのかかわりで捉えようとしてみた。
 西東という姓は、この辺りでは二本松に多いようで、更に地域を絞れば塩原近くの湯川村に多いようなのだ。

 しかし、直ぐに行き詰る。というのは、寛政7年(1795)に亡くなられた神職であった西東行廣氏が「薩摩守」を名乗って活躍していた時代と、ここが二本松藩の支配下にあった時代を照らし合わせてみたら、しっくりといかないのだ。

 まずは、八丁目宿が二本松藩支配になる時代を中心にその前後の支配者を確認してみた。
 散策資料では、境川との関係で八丁目宿は福島藩領のイメージで語られることが多いが、それは堀田氏の時代までのことだ。ここ八丁目村は元禄13年(1700)からは幕領だった。
 これが、享保15年(1730)~寛保2年(1742)まで二本松藩(藩主丹羽高寛)あずかりとなる。先に整理した享保14年(1729)の一揆とのかかわりで、大森代官所付37カ村、川俣代官所付14カ村が二本松藩あずかりとなっていたこととのかかわりだ。
 その後、寛保3年(1743)には再び幕領となる。
 それが正式に二本松藩領になるのは天保3年(1832)からだ。ここから幕末まで八丁目村は、二本松藩の八丁目代官支配下となる。地元の念願でもあったらしい。

 これに西東行廣氏の時代を重ねてみると、残念ながら八丁目宿が二本松藩領となる前の幕領の時代なのだ。

 今度は観点を変えて、二本松藩の神官を確認してみることにした。
by shingen1948 | 2018-08-21 10:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)