地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び八丁目宿へ ~西東広親②

 「西東広親碑」の前半は、氏が権少教正の教導職に正式に任命されたことが記される。

 教導職は、神道国教化運動のために設置された明治政府の大衆化のための宗教官吏とのことだ。
 各地の社寺で、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴に基づいて説教を行うことが期待されていたようだ。具体的には、国家・天皇への恭順や、敬神思想を中心とした内容で、ほかに、家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵についての講義ということらしい。

 この制度自体は明治17年に廃止されているらしいので、明治18年7月9日付任命に危うさは感じる。
 ただ、その任命者稲葉正邦氏は、明治8年に神道事務局を設立して管長に就任し、明治17年に事務局が神道本局に改組されると、その初代管長に就任しているようなので、神道本局からの正式な任命であるようには伺える。

 この任命者稲葉正邦氏については、この地域では特別な思いもあるように推測する。
 その経歴を確認すると、二本松藩主丹羽長富のご子息らしいのだ。それが、稲葉正誼氏の養子になられたということのようだ。
 江戸時代は、山城淀藩主稲葉家12代となり、文久3年には京都所司代に就任。
京都守護職松平容保とともに尊攘派に対峙。老中にすすんで、国内事務総裁をかねて将軍徳川慶喜公を補佐した。
 しかし、鳥羽・伏見の戦いでは中立を宣言して、これが新政府軍勝利の一因となったとされる。この辺りの動きは、大河「八重の桜」の整理とのかかわりで引っかかるところではあるが、ここではふれない。

 明治期には、版籍奉還で淀藩知事になり、廃藩置県でその地位を退く。
 維新後は平田鐵胤に入門して神道に傾倒し、三島神社宮司や大教正などを歴任することになるようだ。
 このことが、明治初期の神道国教化政策整備に寄与する基になるということなのだろう。

 「福島のいしぶみ」では、この碑を文学碑に分類しているのだが、それは後半に氏の歌が刻まれるからだろうか。
 なお、その解説で、西東広親氏を石合町の神官とするが、これが八丁目宿の稲荷神社の神官であることは先の散策で確認している。
 また、明治天皇東北御巡幸の際、和歌を献上していることも先に確認している。
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by shingen1948 | 2018-08-09 11:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)