地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏(その2)53~谷文晁氏との交遊④

 「熊阪台州氏(その2)51~谷文晁氏との交遊②」で整理したように、寛政6年(1794)夏、文晁氏は、瀬上駅を通りながらも、自ら熊阪家白雲館に立ち寄ることはなかったということだ。

 実は、この時以外にもう一回、ひょっとすると高子にも立ち寄ったかもしれないという憶測があったようだ。それは、前回整理の定信公が文晁氏の「真景図」を描くことのできる画力を認めることともかかわっているようだ。

 文晁氏は、若い日に全国を旅していて、定信公とかかわることになる田安家に出仕する前の年、天明7年(1787年)の時点で、「松島真景図巻」という木版刷りによる図巻を完成させているということだ。
 定信公は、このような作品から文晁氏の「真景図」を描く画力を見出したのであろうということのようだ。

 この図巻に描かれる松島真景は、天明6年(1786年)頃に東北に遊んだこととのかかわりのようだが、技術的には、その前年頃に西遊したことともかかわるようだ。

 高子にも立ち寄ったかもしれないという憶測は、「永慕編」出版の時期とこの天明6年(1786年)頃に東北に遊んだ時期のかかわり方が自然な流れになるということがからむようだ。

 「永慕編初版」は、天明8年(1788)に出版されている。その為には、その前年あたりには稿は完成しているはずだということになる。その推定と、この東北に遊んだ時に高子村に立ち寄ったとすると自然な流れになるようなのだ。
 結構、多くの方がこの仮説を提案されていたようだ。

 この仮説が崩れるのが、「熊阪台州氏(その2)47~高子山の『高子二十境』⑧」でふれたように、「永慕編」初版の挿図を描いたのは地元画家周俊・淑翰氏であって谷文晁氏ではないということのようだ。
 天明8年(1788)に出版された「永慕編初版」は、谷文晁氏挿図入りではなく、改版後ということだ。
 これで、この時の高子村立ち寄りには、自然さを失ってしまったということだ。
 それでも、今でも文晁氏が東北に遊んだ機に高子村の台州氏と接触の可能性をにおわせる資料はあるようだ。
 しかし、この憶測は説得力を失ってしまっているということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-06-11 10:21 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)