地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏(その2)52~谷文晁氏との交遊③

 正直に言えば、先の整理では、心のどこかで文晁氏の「永慕編(熊阪台州)」挿絵は、地元の画家周俊・淑翰が描いた二十境図の模写ということをマイナスイメージでとらえているところもあった。
 しかし、文晁氏と定信公とのかかわりを確認してみて、その模写を通して真景を見抜く力の持ち主であることが分かった。
 
 文晁氏は元々「真景図」を描くことのできる画力の持ち主だったようだ。
 その力が「集古十種」での模写などで更に磨かれ、失われた石山寺の名宝「石山寺縁起絵巻」の補作に繋がるというこのようなのだ。
 今回は、この情報を得て、模写のマイナスイメージが払しょくされたことを記しておきたかった。

 地域の散策で、松平定信公とかかわる文晁氏の仕事にふれるのは「集古十種」だ。しかも、資料としての見え方だ。
 しかし、松平定信公と文晁氏のかかわりを確認していくと、この仕事に至る経緯の原点は、定信が江戸湾岸巡視の際に文晁を随行させたことにあるようなのだ。

 定信公の江戸湾岸巡視は、寛政5年(1793年)で、現役ばりばりの頃だ。
 海防問題(江戸湾防備)に直面した定信は、江戸湾岸巡視を決行するのだが、その時に文晁を随行させて各地の風景を描かせたとのことだ。
 定信公が着目したのは、風景画という絵画の〈記録性〉や〈実利性〉の重要性ということだ。ここに着目できたのは、身近にその画力を持った優れた絵師文晁氏がいたからだといわれているようだ。
 その実際の仕事が「公余探勝図」とのことだ。
 この作品については「e国宝<国立博物館所蔵国宝・重要文化財>」のページでその雰囲気を確認できる。その解説には、西洋画法の遠近法と陰影法が加えられるという画面作りの基本姿勢が特徴とある。

 http://www.emuseum.jp/detail/100324?d_lang=ja&s_lang=&word=&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=1&mode=¢ury=

 文晁氏の画風はいろいろな画才が混淆し、とらえどころの難しい絵師だといわれているようだが、定信公が文晁氏に着目したことの一つが、このような「真景図」を描くことのできる画力ということらしいことが読み取れる。

 「谷文晁生誕250周年展覧会【サントリー美術館】」解説によると、この「真景図」を描く画力を持った文晁氏が寛政8年に定信公の名を受け、古文化財の調査時に多くの名品を模写記録し刊行されたのが「集古十種」ということだ。
 この模写記録が、文晁氏の画業にも大きな影響を与えているという。
 そして、その延長線上に、失われた石山寺の名宝「石山寺縁起絵巻」の補作があるという。
 ここでは、文晁氏は、一切の私意を加えず古様に従い補完の構想を練ったということだ。

 https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2013_3/display.html

 話を文晁氏の「永慕編(熊阪台州)」挿絵の話に戻す。
 
 文晁氏は、自ら白雲館に赴くことはなく、当然、描かれた高子二十境図の実際の風景を見ていない。従って、基本的には、文晁氏の「永慕編(熊阪台州)」挿絵は、地元の画家周俊・淑翰が描いた二十境図の模写ということになる。

 しかし、文晁氏は「真景図」を描くことのできる画力を持つ。その文晁氏が「集古十種」で模写の仕事を積み重ねている。その模写を通してその「真景」を見抜く力の鍛錬になっていたのではないかとの想像を重ねる。

 「永慕編(熊阪台州)」挿絵では、その模写で真景を見抜いていると共に、「熊阪台州氏(その2)46~高子山の『高子二十境』⑦」で整理したように、その日常感を削ぎ落し、盛唐詩の影響を受けた熊阪三代唱和の漢詩の雰囲気である仙郷の印象を強めた表現にしたと想像すべきなのだろうと思うのだ。
by shingen1948 | 2018-06-08 17:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)