地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏(その2)51~谷文晁氏との交遊②

 今までは、谷文晁氏については「熊阪台州氏(その2)46~高子山の『高子二十境』⑦」で確認したように、「江戸文人画壇の重鎮」との捉えで整理してきた。
 この時に、さらりと「卓越した画技とともに学問もあって、松平定信や田安家の後援を得て」いることにもふれておいた。

 地域を散策する者の視点として、松平定信公とのかかわりという視点を加えての整理もしておきたいと思うのだ。

 先に、散策とのかかわりで松平定信公にふれたことがある。
 その一つは、「宮脇遺跡」脇の日枝神社の右側に建つ「霊山碑」だ。「里の霊山寺:『宮脇遺跡』第5次調査現地公開説明会⑥」として整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/11725906/

 その二が、飯坂の八幡神社の裏にある「鯖湖の碑」だ。「白河城主松平楽翁公建立『鯖湖の碑』」として整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7954919/

 そして、その三が「直江兼続」の肖像にかかわる「集古十種」だが、これが松平定信公によって編纂されたものだ。谷文晁氏はその図録の画家として参加している。この図録は、信頼すべき図録とされ、製作・考証・鑑賞の各方面に多大の影響を与えたという。
 「『集古十種』古画・肖像四身』~直江兼続公肖像画」として整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7950412/

 ということで、谷文晁氏もまたこの辺りを歩いていることが想像できるようなのだ。
 「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」では、その辺りとのかかわりで、それでも谷文晁氏は、高子に立ち寄ってはいないらしいことについて次のようにふれている。

 寛政6年(1794)夏、松平定信附御絵師の立場にあった。定信は、松島での観月を望んだ文晁を、自らの代参として塩釜神社に参詣する鵜飼貴重に随行させた。文晁は8月10日に白川を出立し、郡山・本宮・二本松を経、須川を目にして福島城下に入った。文晁は文知摺石を見学し、瀬上駅・医王寺・桑折駅・藤田駅・国見峠を超え白石に向かった。興味あることに8月12日、文晁は瀬上駅を通りながらも、目の前にある熊阪家白雲館に寄らなかった。
 文晁は、台州や盤谷と江戸で会い、自ら白雲館に赴くことはなかった、と考えられる。

 行動確認の資料は「婦登古路日記【懷日記】(谷文晁)」だろうかと思うが、確認していない。
by shingen1948 | 2018-06-01 09:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)