人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

熊阪台州氏(その2)50~谷文晁氏との交遊

 谷文晁氏は、「永慕編」に三代唱和の挿図を描いている。また、谷文晁氏の交友関係を確認すると、熊阪台州・熊阪磐谷の名が挙げられている。
 したがって、熊阪親子二代との交友関係にあるようなのだが、谷文晁氏側の資料で具体的な交友関係は確認できなかった。

 先に台州氏との交遊関係が確認できた太田南畝氏との交遊関係確認を通して谷文晁氏との交遊関係を確認できないかということで、先に確認した「浮世絵文献資料館」のページを開いてみた。

 太田南畝氏と谷文晁氏との交遊関係は、以下のように直ぐに確認できた。

 「河 世寧 寛斎の集ひ。天民・五山・谷文晁と同じく賦す」・「東叡山に花を看て谷文晁諸子に邂逅す」

 更に、谷文晁氏の子谷文一氏との交遊も確認ができる。

 「弥生九日、人の来て、よべ谷文一子身まかりしといふ。その夜のゆめにその人をみて」・「.谷痴斎の訃を聞く。疾に臥して会葬すること能はず。其の睡夢に痴斎を見る【痴斎、諱文一】」

  ここで、.「谷痴斎」とあるのは、一世の谷文一氏で、その子が二世の谷文一氏で文権・文逸を名乗るようだ。どちらも早世してしまうのは、熊阪盤谷氏の生涯と重なるような気がする。

 他の資料等からも、太田南畝氏と谷文晁氏との親密な交遊関係が想像できるようであることは伺えたが、ここ熊阪台州氏がかかわりをもつという確認はできなかった。

 今回、「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」を詩文解釈のガイダンスに使わせていただいたが、ここに熊阪盤谷氏の著書からその交遊関係が示されている。
 
 寛政2年、盤谷は同郷の友人安松洲をともない文晁宅を訪れた。
 盤谷は写山楼で文晁と酒杯をかさね、また二女の舜英の琴を聞き、戯れて詩作した。
 「聞其妹蕣英弾琴、戯賦」

 寛政3年(1791)3月、盤谷が郷里高子村に帰るにあたり、文晁は一詩を送った。文晁のみならず妹の舜英も送別の詩を寄せた。
 これに、盤谷は返詩した。
      (戊亥遊嚢)

 寛政12年(1800)江戸に就いた際に、「東海文晁(写山楼)を訪れる」。2月下旬、柳橋の酒楼で儒者・詩人・書家等と戯作戯画を楽しむ。その中に、谷麓谷・文晁親子も同席した。

 「菊池衡岳(和歌山藩学習館儒官)の思玄亭に過る、偶々谷文晁至る、困てこれを賦して衡岳に呈し、兼て文晁に贈る」
      (南遊稇載録)

 盤谷氏の江戸文人との交遊は、父熊阪台州氏によって築かれた交遊関係が土台となっている。いわば親の七光りの上に構築されたものだ。
 父熊阪台州氏と谷文晁氏との交遊関係は確認できないが、盤谷氏の文晁氏との交遊確認をもって、その交遊を推定できるということのようだ。
by shingen1948 | 2018-05-29 11:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)