鴎外氏が認識する熊阪系譜⑤:熊阪台州氏(その2)39~「處士台州熊阪翁墓碑」⑦
2018年 04月 26日
児島定悠氏は、保原村の尾張支藩の梁川藩御用達である熊阪助利氏と江戸で出会う。
助利氏は、定悠氏は才能があると見込んで、弟太次右衛門の寡婦になっていた片平氏娟に入夫させ、伊達に住まわせて、熊阪氏を名乗らせた。
児島定悠氏にとっては、助利氏が梁川藩御用達であることや伊達の熊阪氏は熊阪土佐の裔という奥州伊達の名族であることも魅力の一つだったのではないだろうか。
「處士台州熊阪翁墓碑」では、定悠氏が「熊阪氏を冒」したとする後に、次のような熊阪系譜が記される。
其の先(遠祖)四郎長範は、保元(1156)の役に、源義朝に従いて力戦するものなり。承安(1171~1175)の比(ころ)、出羽の由利某、越後の藤沢某、群盗を誘い、諸道に横行し(あらしまわり)、偶々(たまたま)、金商吉次を鏡亭(滋賀県南部鏡山の麓にあった宿駅)に襲(おそ)いて、而して、源牛弱(うしわか=牛若丸源義経)のために殺さる。世俗(せぞく)、戯曲(ぎきょく=熊阪長範の登場する謡曲「熊坂」幸若「烏帽子折」などをさす)に惑い、或は長範を以て跖蹻(せききょう=盗跖と荘蹻、中国古代の有名な盗賊)の倫(たぐい)とす。宜しく其の冤(えん=冤罪、ぬれぎぬ)なることを知るべし。
伊達の熊阪系譜は、市柳熊阪氏の系譜を本家筋とするようだ。
高子の熊阪系譜とかかわる中村の熊阪系譜は、この市柳熊阪氏の系譜から分岐している。
「白雲館墓碣銘(菅野宏氏)」では、その市柳熊阪氏の系譜である「熊坂秀意銘」から、遠祖からの熊阪系譜と中村の熊阪系譜の分岐点を確認しているようだ。
なお本家筋の市柳熊阪氏の系譜は、先にそのよさを分からぬままに「熊坂適山・蘭斎合作画碑
」で整理していた熊阪適山氏、蘭斎氏を輩出する。
〇 熊坂適山・蘭斎合作画碑
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