地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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鴎外氏が認識する熊阪系譜④:熊阪台州氏(その2)39~「處士台州熊阪翁墓碑」⑥

 初めは散策資料が案内するような観点で地域散策をしている。
 それで、一般的には漢詩文は近世の「支配階級」や「知識階級」の者だけの文化活動として行われていたものという認識だ。
 それなのに、この時代に、ここ白雲館では熊阪三代のような篤農家の指導者のもと、非武士階級の者たちが文学活動を展開していたことは特異な事であるという見え方になる。

 ところが、鴎外氏は、史伝「井沢蘭軒」で、作中のわたしに「磐谷の祖先は武士であっただろう」と想像させている。しかも、作者である鴎外氏は、少なくとも熊阪台州氏を熟知しているという状況があっての見え方なのだ。

 この戸惑いもあって、確認を進めてきたところだ。
 行きついたところが、鴎外氏が認識する熊阪系譜は、作品を通して見える熊阪系譜で、実父である児島(熊坂)定悠氏から覇陵氏→台州氏→盤谷氏と続く系譜だったと思われるということだ。
 「處士台州熊阪翁墓碑」でも、姓は熊阪だが、本姓はこの児島で、近江源氏佐々木盛綱の後裔だとしている。

 その詳細は、先に「熊阪台州氏(その2)⑦」で確認した「覇陵熊阪君墓碑」の「白雲館墓碣銘(菅野宏)【白雲会研究会1989/4】」による釈文の出だし部分の亡父の系譜にある。
 あらためて、その概要を確認する。
 https://kazenoshin.exblog.jp/238266048/

 まずは、台州氏墓碑で高子の熊阪氏の祖であるとする児島定悠の事が以下のように記される。
 「考(亡くなった父)は孫右衛門、諱は定悠、姓は兒島氏。故有りて鮒子田氏を冒す(鮒子田の姓を名乗る)。譜(家譜)を按ずるに、蓋し、宇多天皇(887~897)の苗裔(子孫)、兒島三郎備後の守高德より出づ。
 高德、元弘建武の間(1331~1336)に当りて、勤王の勲、史籍(歴史の書籍)に詳かなり、不復た贅(ぜい)せず(余計な事は記さない)」

 次に、遠祖からの系譜が記される。
 ここを、鴎外氏がいう「磐谷の祖先は武士であっただろう」というくだりを視点に確認してみる。

 高德氏から3代目の正綱が、「新田義宗(新田義貞の子)に従いて、豫州(伊予)に徙(うつ)る」と記される。
 次に、光義から定信代までの系が「江州(近江)に在り、六角氏に属す」と記される。
 更に、次の代から3代にわたり「世々宮津侯(丹後の国、宮津、今の京都府)京極氏に仕う」とするも、「寛文丙午(ひのえうま=6年1666)、侯(時の城主、京極高国)、罪有りて国除かる(父高広の訴えにより、徳川家綱にとりつぶされる)。定政、同志の士、五十餘人と、堅く其の城を守り、侯の手書(明渡し状)の至るを待ちて、而して後、諸(これ)を官使(幕府の使い)に致し(渡し)て而して去る。乃ち平安に客たり(その結果士禄から離れて京都に仮寓する身となった)」と記される。

 このあたりが「磐谷の祖先は武士であっただろう」とすることとかかわりあいそうだが、台州氏墓碑で高子の熊阪氏の祖であるとする児島定悠氏が誕生するのは、その士禄から離れて京都に仮寓する身となった後だ。
 それでも、永いスパンで見れば、確かにその祖は士族だったことが記されているともいえる。

 ただ、散策する上での興味は、児島定悠氏が士族だったかどうかという事よりも、近世の「支配階級」や「知識階級」の者だけの文化活動として行われていたという漢詩文の素養を持ち合わせていたかどうかということだ。
 全国的に認知される白雲館での文学活動は台州氏の代のようだが、その台州氏の素養を支えたのは覇陵氏だとするならば、その覇陵氏の文化活動の素養を培った環境としての児島定悠氏の存在がどうだったかということだ。
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by shingen1948 | 2018-04-18 10:27 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)