鴎外氏が認識する熊阪系譜③:熊阪台州氏(その2)38~「處士台州熊阪翁墓碑」⑤
2018年 04月 05日
このことにかかわってちょっとわき道にそれる。
「おくのほそ道自然歩道(福島県県民室)」に、この事を意識した表現があるのが気になっていたのだ。
同書では東根道の中の一つとして、熊阪家墓も紹介される。
月の輪―高子沼―熊阪家墓―愛宕山―福源寺―瀬上の各所が紹介されるのだが、「熊阪家墓」は次のような紹介の出だした。
「江戸時代末期、江戸の知識人たち、井沢蘭軒(1777~1829)・渋江抽斎(1805~1856)・菊池五山(1769~1853)・太田南畝(1749~1823)・頼山陽(1780~1833)などと親交を結んだひとがこの地にいた。熊阪盤谷である。この人の祖父覇陵・父台州、などなど、一族の墓所がここにある。……」
この紹介の菊池五山氏・太田南畝氏・頼山陽氏については、井沢蘭軒氏との交流関係からも捉えられるだろうが、ここに渋江抽斎氏が入っている。
この方は、森鴎外氏が、史伝三部作の第一作目「渋江抽斎」で紹介されて名を知られるようになった方のはずなのだ。少なくとも、この方とのかかわりで第二作目「井沢蘭軒」が手筆され、その作品に熊阪盤谷氏が登場して熊阪三代が紹介されるという一連の流れを意識しているとしか思えないのだ。
ただ、それなら森鴎外氏についてもふれてもよさそうに思うのだが、それはない。
分かる人は分かるはずという風な扱いになっているのだ。
これがずっと気になっていたのだ。
その監修を確認すると、菅野宏氏と蜂谷剛氏の名が挙がっている。蜂谷剛氏は動物学者のはずなので、この紹介に係るのは菅野宏氏のはずだと思うのだ。
ここまでは慎重な物言いにしたが、この辺りのおくのほそ道自然歩道の実地調査では、他に植物学の樫村氏、2名の学生が同行しているはずなのだ。
その学生の一人とあった時に、この事を話題にしたことがあったが、曖昧なままだった。
それが、今回「白雲館墓碣銘(菅野宏氏)」の確認ですっきりした。
その「あとがき」の出だしに、つぎのようにあったのだ。
「台州の墓からさほど遠くないところに親戚があって、小学四年のとき、父と一しょにお詣りをしたのが最初の記憶である。それから十年ほどの後、鴎外を読んでいて、台州盤谷が出現したときには驚いてしまった。……」
菅野宏氏は「おくのほそ道自然歩道(福島県県民室)」で熊阪家墓を紹介する時に、この事を意識していたことは確かなことらしいということだ。