熊阪台州氏(その2)32~台州氏代の「熊坂家蛍域」④
2018年 03月 25日
その確認を通して、覇陵氏達が高子に住する際の「熊坂家蛍域」原風景のイメージも見えて来た。

実際には、この墓碑自体は寛政四年に台州氏が撰文し、盤谷氏の書になる整備が行われたものなので、あくまでもイメージとしてということではある。
この墓碑の表題は「阿閣院翽鳳起居士之墓」だが、その経歴に「居士姓熊阪氏、諱助英、稱太七郎、太左衛門助利之弟也、以延賓八年庚申生、以元緑十年丁丑四月四日卒、隼僅十八」と刻まれている。この経歴からは、これが「太七郎助英碣銘」であることが分かる。
「高子熊阪氏系譜」と「秦氏」との関係を示した図との関りでは、「太七郎(助英)」として示した方だ。
次に刻まれるのは、享保20年に助利氏が高子村に田や宅地を購入し、助利氏の姉之子秦豐重に託した際に、この亡弟助英氏の墓碑を長谷寺から改葬し、これを嗣ようにされたというようなことだ。
このことから、覇陵氏達が高子に住する際の「熊坂家蛍域」原風景のイメージと重なることが確認できるということだ。
更に刻まれるのは、中村熊阪氏の家譜の熊阪氏系譜ということで、伊達熊阪氏系譜と思われる熊阪四郎諱長範からの系譜が記される。