地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

熊阪台州氏(その2)31~台州氏代の「熊坂家蛍域」③

 高子熊阪氏の分家は、覇陵氏の実父母との関りで行われたわけではないようだ。
 それは、画策され中村熊阪氏3代太左衛門(助利)氏の姉の嫁ぎ先の秦氏とのかかわりを要として行われるようだ。
 「熊坂家蛍域」原風景にかかわる墓碑のうち、中央の「太右衛門豊重・久保氏越碣銘」が、これに絡む。

 昨日、中村熊阪氏から高子熊阪氏が分家する部分と覇陵氏の実父母とのかかわりを図示した。この図に、高子熊阪氏の分家の要とる秦氏とかかわる部分を紫色で重ねてみた。
a0087378_9244926.png ここで「助利氏姉」としている方は、「高子熊阪氏系譜」や「太右衛門豊重・久保氏越碣銘」では、「熊坂女」とされている方だ。「高子熊阪氏系譜」では、助利氏とのかかわりを中心に表記されるので、「熊坂女」から秦氏「豊重」に線が引かれ、そこから助利氏の系譜に戻って小満(養都)に線が結ばれ、その小満(養都)と覇陵氏が夫婦となるという表記だ。

 この辺りは、先に整理した「熊阪台州氏(その2)⑧~「覇陵熊阪君墓碑」⑧」で整理した釈文の次の部分とかかわる。

 「助利姉(藤田の秦平助に嫁していた)の子、同郡の秦豐重(1672~1738)、助利が女(養都(やつ))を養いて、子と為し、以って君に妻(めあわ)せ、以て己が嗣と為す。既にして豐重も、亦熊阪氏を冒す(豐重もいっしょに熊阪氏の籍に入るようにした)。

 この図は、このこととのかわりが分かるように整理してみたということだ。

 まず、助利氏姉が、藤田の秦平助氏に嫁ぐの部分。
 その秦平助氏と助利氏姉さんの間にできた子が秦豊重氏ということだろう。
 次に、「助利が女(養都(やつ))を養いて、子と為し」の部分。
 「助利が女」の表記だが、他の地域情報とも合わせて、「助利氏の次女小満」=「養都(やつ)」とみた。その方が秦豊重氏夫妻の養女となったと解釈した。
 更に、その「養都(やつ)」さんと覇陵氏が夫婦になって後嗣になったとの読み取りだ。

 養都(やつ)さんと覇陵氏が夫婦になって後嗣とするということなので、覇陵氏を高子熊阪氏初代とすることが助利氏の目算だったことが分かる。
 しかし、それと同時に「既にして豐重も、亦熊阪氏を冒す(豐重もいっしょに熊阪氏の籍に入るようにした)」ともあるので、実際には、秦豊重氏の代から熊阪氏になっていたということでもあるようだ。
[PR]
by shingen1948 | 2018-03-23 09:32 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)