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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

熊阪台州氏(その2)⑲~「曵尾堂」③

 ただの地域散策人にとっては、「琉球奇譚」の刊行年を根拠に印鑑を引き継いだ半沢が押印したとする部分には、違和感がある。

 「琉球奇譚」の刊行は、確かに盤谷氏没後3年のようだ。次の代の達夫氏も、文政11年(1828)には、京都の中川家で亡くなっている。
 しかし、盤谷氏は、達夫氏没後、堀氏の子である定謙氏を養子に向かえている。そして、その定謙氏の子の定駿氏が、天保11年(1840)に達夫氏の墓碑銘を建てていることになっている。実質的には、案内板にあるように、門弟たちの仕事だとは思う。

 それでも、そういう環境の中で盤谷氏が亡くなって早々に曵尾堂文庫が移設されたとは考えにくい。曳尾堂文庫の移動を、幕末から明治ごろにかけてとの想定することへの違和感かもしれない。
 門弟の方々の動きも考慮すれば、「白雲館墓碣銘(菅野宏)」の年表にあるように、「定駿氏47歳の明治6年(1873)、この頃曵尾堂文庫山形漆山半沢久次郎方に移されたか」というのが自然なように思う。

 前回も記したが、興味深いのは蔵書印も半沢氏に託されたという心情的な意味合いだ。
 地元を散策する者としては、この移譲は「熊坂家の家運衰え」という意味も感じて残念に思う側面はある。しかし、この時に、熊阪氏が半沢氏に書庫「曵尾堂」文庫の存続を託したという側面もあるのではないかなとも思うのだ。

 そうなると、その託された山形市外漆山の半沢家が気になる。ということで、その情報を追ってみた。

 その半沢家のあった場所だが、羽州街道沿いの漆山番所跡の向かい側の現「東北ビバリッジ」という食品工場敷地辺りがその跡地らしい。
 漆山村は、明治22年(1889)に千手堂村や七浦村と合併し、出羽村となったようだ。そして、昭和29年(1954)には、この出羽村が山形市に編入されるという経緯をたどる。それで、山形市出羽地区の現山形県山形県山形市大字漆山として情報は流れているようだ。
by shingen1948 | 2018-02-20 09:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)