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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏(その2)⑮~白雲館・明月楼・海左園

 案内板で、「白雲館・明月楼・海左園」については「白雲館社とは、高子熊阪家の居宅の号で、楼を「明日楼」、書庫を「曵尾堂」、門弟が集う場所を「洗心室」、庭を「海左園」と称する座敷の総称」との説明だ。
 「白雲館の屋敷図」とのかかわりについては既に知っているということを前提にしているようだ。 しかし、当方にはその知識が全くないので、確認が必要だ。

 まずは、「白雲館社は、高子熊阪家の居宅の号で、楼を「明日楼」としょうする」と解説する部分だが、半沢氏の「歴史地図」では「芸文福島Ⅰ(菅野宏)」を出典に、「覇陵は伊達市氏の祖中村朝宗の居城と伝える「高子館」の由縁の地に居を構え、この地を「白雲館」ととなえ、家屋を「明日楼」と名付けた」と説明する。
 つまり、「白雲館の屋敷図」とのかかわりでみれば、この屋敷の建つ地が「白雲館」で、その屋敷自体が「明日楼」という解釈のようだ。
 碑文の釈文の「其の居(きょ=居宅)に顔(がん=屋号をつける)して、白雲舘と曰い、樓(高殿)を明月樓と曰う」という部分と重なるのだろうと思う。

 次に、「海左園」について確認する。
 かかわるのは、案内板解説の「書庫を「曵尾堂」、門弟が集う場所を「洗心室」、庭を「海左園」と称する座敷の総称」とある部分だ。「海左園」と称する庭は当初よりあったようだが、「曵尾堂」と「洗心室」は、息子の台州氏が造った施設のようだ。
 「曵尾堂」と「洗心室」を除いた「白雲館・明月楼・海左園」が、覇陵氏時代の原風景ということになるのだろうと思う。
 その「海左園」が、碑文の釈文に「園を爲(つく)りて、牡丹を種え、洛種(京都の品種)數十品を郵致す(飛脚で送らせる)」という部分と重なるのだろと思う。
a0087378_1116596.jpg 屋敷図と見比べると、「曵尾堂」と「洗心室」等も含めて想像しないと、その原点も見えにくい。

 地域の情報では、「洗心室」は屋敷の北に、「曳尾堂」は屋敷の西に増築したらしい。また、台州の晩年には、南に「真隠亭」を築いたが、それを西の「海左園」だったところに移築したということがあるらしい。
 これらの情報を元に、屋敷図に重ねて想像するとこんな感じだろうか。

 「曵尾堂」のために増築した部分は、屋敷の西の二部屋あたりを想像する。機能的には、その手前の三部屋あたりも活用したかもしれないとも思う。
 「洗心室」のための増築部分は、屋敷の北に飛び出た部屋だろうか。

 そして、西の「海左園」に移築したという「真隠亭」が屋敷から廊下で結ばれた離れを指すのだろうと想像する。
by shingen1948 | 2018-02-14 11:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)