熊阪台州氏(その2)⑫~大田南畝氏との交遊②
2018年 02月 08日
「熊阪子彦」が熊坂台州氏であることは分かるが、その他の方々呼称関係が分からない。それで、「文人サロン交友」の項で確認すると、次のようだった。
「士訓」とされる方は、「山内 穆亭(やまうちぼくてい)」(山士訓)(さんしくん)とされる。
「道甫」とされる方は、「山道甫(さんどうほ)」(朱楽菅江)(あけらかんこう)とされる。
「君忠」とされる方は、「山田 松斎(やまだしょうさい)」(山君忠)(さんくんちゅう)とされる。
「公修」とされる方は、「岡部 四溟(おかべしめい)」(岡公修・素観師・喘月庵)(こうこうしゅう・そかん・ぜんげつあん)とされる。
「叔成」とされる方は、「菊池 衡岳(きくちこうがく)(関叔成・思玄亭)(かんしゅくせい・しげんてい)とされる。
「季成」とされる方は、「樋口 元良」(ひぐち げんりょう)(樋季成)(ひきせい)とされる。
ここまでの整理で、「白雲館墓碣銘(菅野宏)【白雲会研究会1989/4】」に、安政4年乙未(1775)、台州氏37歳、盤谷氏9歳の春、代州氏が江戸にのぼり、はじめて観海先生に謁し、2か月間滞在した時に、多くの文人たちの歓迎を受け親交を結んだことが記されるが、この情報と重なることが分かる。