地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏(その2)⑩~「覇陵熊阪君墓碑」⑩

 そこに刻まれるのは故人の氏名や死亡年月日というのが、自分が持ち合わせている墓碑のイメージだった。
 それに比して、この「覇陵熊阪君墓碑」は、死者の経歴や死者への哀悼の言葉も印され、その碑文を見て故人を偲ぶことができるようになっているということだ。
 「熊阪台州氏⑥」にかかわる散策時には、このイメージこのイメージを持ち合わせていない。この時に「覇陵熊阪君墓碑」を撰することともかかわる松崎観海氏との手紙のやり取りにふれているが、真に理解できていなかったということかもしれないと思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23480619/

 ただ、漠然とは気づいていたとも思う。
 先に森鴎外について整理した時に、その探索方法として、墓地を訪ねて碑文を書き写すという作業が多いなとは思っていたのだ。墓碑には訪ねた者にその事績のヒントを与えてくれるものという側面があることを感じていたとは思う。
 ただ、墓碑には、死者のためだけでなく、訪ねたの心に訴えかけてくれるものという本来的な墓碑の役割にまでは思い至っていなかったという状態だったかもとも、……。
 今回は、その本来的な墓碑の姿とされたものが確認できたということでもあるようだ。

 白雲舘門下生は、それに加え、更に深い想いを抱いて、この墓碑を眺めただろうと思う。
 先にも記したように、ここに刻まれる漢文は、当時もっとも「徂徠学派として重きをなしていた」龜山松崎惟時氏による格調高い漢文であり、その揮毫は、当時一級の文人とされる大田南畝氏によるものだ。
 この墓を通して、江戸文化とのつながりを感じたのではないかと思うのだ。

 散策人にとっては、ここまでの整理で龜山松崎惟時氏と碑の建立者である熊阪台州氏は師弟関係であることは分かっているが、大田南畝氏との交流が分かっていない。ということで、しばらく大田南畝氏側からの視点からの確認を試みていたのだ。
 結論からいうと、師を同じくする詩遊であり、次の代の盤谷氏とも交流があったことが分かる。

 白雲舘門下生は、当然この関係性は知っている筈だ。
 この関係性を知る者としてこの碑に接していることを想像し直せば、この碑自体が江戸文化そのものとさえ思えたはずだとも思うのだ。
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by shingen1948 | 2018-02-06 10:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)