地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏(その2)⑨~「覇陵熊阪君墓碑」⑨

 「白雲館墓碣銘(菅野宏)【白雲会研究会1989/4】」での釈文確認を続ける。

 前回は、荻生徂徠の書に接して、爽然自失した覇陵氏は、其の稿をすべて焚いてしまったという辺りまでの確認だった。
 今回は、その彼が晩年に辿り着いた境地と生活ぶりが記されるようだ。その中に、白雲館や高子二十鏡とのかかわりも……。

 晩(晩年)に自ら丘壑(きゅうがく)に放(ほしいまま)にす(美しい自然のなかで悠々自適の生をおくった)。園を爲(つく)りて、牡丹を種え、洛種(京都の品種)數十品を郵致す(飛脚で送らせる)。其の居(きょ=居宅)に顔(がん=屋号をつける)して、白雲舘と曰い、樓(高殿)を明月樓と曰う。 析子彦(台州)を携(たずさ)えて、日に其中に嘯歌(しょうか=うそぶき歌う)。二十景の詩有り(王維の二十境にならって二十景をえらび詩をつくり)、子彦に命じて之を和せしむ(唱和の詩をつくらせた)。父子の間、自ら知己爲(ちきた)り(おたがいよく理解しあえる間柄であることを喜びとした)。
 疾病(やまいへい=危篤)なるとき、詩を作りて自ら題(だい)す(うたい述べる)。筆翰(ひつかん=筆の勢い)流るるが如し。恬然(てんぜん=やすらかなさま)として終に臨む(自分の最後の生をみつめていた)。明和甲申(きのえさる=6年1709)十一月十五日なり。生(せい=一生)は寶永己丑(つちのとうし=6年1709)十一月二十八日を距(へだ)て(11月26日から)、年を得ること五十六。
 伊達高子村、西門外(熊阪家墓地)に葬(ほうむ)る。蓋し、紵(ふつ)を執る(喪車の引綱、転じて野辺のおくりに連なる)者、三百人。君、二男二女を生めり。男を定邦(台州)と曰う。即ち子彦(台州の字)なり。先に某氏を娶り、繼いで娶寺島氏(福島城下寺島氏葛(かつ))を娶る。女(むすめ)は信夫の宍戸某に適(ゆ)く。其の二は夭す。孫男二人(伯美、盤谷)、並びに幼し。
 子彦、文章を善くし、奇才有り、余(観海)と善し、親(みずか)ら君が行いを状して(覇陵の行状業績をつぶさに記して)、千里(遠く離れたわたしの所)に銘を乞う。銘に日く。
 戒むること(人生の戒めとしたこと)これ色(感官をよろこばせるもの)に在り、守志(そのこころざし)を守りて惑(まど)わず。死生(人間の死も生)も亦、大(大きな大きな理法)なり。悠然(ゆうぜん)として自得す(自ら悟り、自ら楽しんでくよくよしない)。宜(むべ)なるかな、富みて好んで其の德を行うこと。子有りて文を能(よ)くす。維(こ)れ其れ燕翼(えんよく)すること攸(はるか)ならん(はるかにいつまでも祖先は子孫を助け安ずるであろう「詩経」大雅の語による)

 明和五年(1768)六月壬戌(みずのえゐぬ)、龜山(丹波亀山藩)松崎惟時(松崎観海)撰、東都(江戸)大田覃(太田南畝)書并篆額、孝子 定邦立


 「余(観海)と善し」からは、覇陵の行状業績をつぶさに記された台州氏の書上を元にして松崎観海氏が記したという視点であることが読み取れる。
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by shingen1948 | 2018-02-04 10:04 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)