地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏(その2)④~「覇陵熊阪君墓碑」④

 前回、「覇陵熊阪君之墓」の写真から本文の比較的痛んでいない上部を切り取って、地元情報と照らし合わせる作業を通して、気分的に「東都大田覃」の「書并篆額」を味わったつもりになれたところだ。
 この作業には、別の効果も派生する。
 その一つは、少なくとも照らし合わせた部分においては、地元のこの碑に刻まれているとする情報と符合することが確認できたという事でもある。つまりは、地元情報の確からしさの確認にもなっているということだ。
 更にもう一つの効果が、この照らし合わを通してこの墓碑の漢字群の配列が明らかになるという事だ。
 明和五年六月壬戌龜山松崎惟時撰、東都大田覃書并篆額、孝子定邦立の「覇陵熊阪君之墓」は、以下のように刻まれていたことが推定できるということだ。

「覇陵熊阪君之墓」

君諱定昭字君行稱卯右衛門號覇陵山人考孫右衛門諱定悠姓兒島氏有
故冒鮒子田氏按譜蓋出自
宇多天皇之苗裔兒島三郎備後守高德高德當元弘建武之間勤王之勲詳
于史籍不復贅焉高德生高光高光生正綱正綱從新田義宗徙豫州正綱生
正光正光生光義光義生定義定義生定綱定綱生定宗定宗生定直定直生
定信蓋自光義至定信在江州屬六角氏定信生定德定德生定次定次生定
政自定德及定政世仕宮津侯京極氏寛文丙午侯有罪國除定敢與同志士
五十餘人堅守其城待侯手書至而後致諸官使而去乃客平安寛文己酉
生定悠亡何買田宅於一乘寺村而隱焉定悠以季子出嗣鮒子田氏故稱鮒
子田氏少東遊奥州伊達望族熊阪土佐之裔助利遇諸東都器之結爲親姻
遂藉伊達冒熊阪氏配片平氏生君助利姉之子同郡秦豐重養助利之女爲
子以妻君以爲己嗣既豐重亦冒熊阪氏君承家服農又善廢著修業而息之
産日益殖少有志功名以策于東諸侯厚禮遇之遂傾橐給焉盡破其産家人
憂之君曰富無經業貨無當主散千金致千金是在我乃復治産比及十年果
致千金鄰里待君而擧火者數十人年飢推産損息貧者爲折券所全活甚多
君疾惡若仇恒言不如郷人之善者好之其不善者惡之是我志也吾耻爲郷
原矣未強喪秦氏遂不復娶旁絶妾甑曰楊叔節我師也幼強記能象棋洞蕭
長渉群書好爲詩中喜禪及讀物先生之書爽然自失醜平生所爲盡焚其稿
晩自放丘壑爲園種牡丹郵致洛種數十品顔其居曰白雲舘樓曰明月樓析
子彦日嘯歌其中有二十景詩命子彦和之父子之間自爲知己疾病作詩自
題筆翰如流恬然臨終明和甲申十一月十五日也距生寶永己丑十一月二
十八日得年五十六葬伊達高子村西門外蓋執紵者三百人君生二男二女
男曰定邦即子彦先娶某氏繼娶寺島氏女適信夫宍戸某其二夭孫男二人
並幼子彦善文章有奇才與余善親状君行千里乞銘銘日戒之在色守志不
惑死生亦大悠然自得宜乎富好行其德有子能文維其攸燕翼
明和五年六月壬戌龜山松崎惟時撰東都大田覃書并篆額孝子定邦立
by shingen1948 | 2018-01-24 11:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)