奥州街道:八丁目宿「眼鏡橋」のある風景⑤
2017年 08月 08日
しかし、「松川のあゆみ」でその経過を確認すると、架設の運びになるのは、信夫橋架設着工を好機ととらえた戸長杉内省三郎氏が、日夜当局と交渉を重ねた結果、その熱意が通じて許可がおりたという事のようだ。
建設のための地盤調査も独自に行い、その結果を当局に報告しているともある。
つまりは、この松川橋架設の仕事は実質的には県令三島通庸氏の仕事ではなく、信夫橋架設と国道整備の機を使った松川村の仕事ということのようだ。
案内板の解説の戸長杉内省三郎氏の300円寄付と松川村の780人の人夫寄付は、このこととかかわるのだろうと思う。
「松川村の780人の人夫寄付」だが、これは「松川のあゆみ」の情報を見ると石材運搬作業のようだ。
案内板にあるように、石材は浅川町五斗内から切り出されたとのことだが、ここから大八車に積んで工事現場まで運ばれたという。村では、この石材の運搬作業に各戸2~3人の役夫を科したということだ。
なお、最近の「松川・宿場町まちづくり協議会会長の菅野善志氏」の話に、「石は、福島市御山の北を流れる川に架けるために切り出したものだったという」というのをみつけた。
「福島市御山の北を流れる川」といえば、河川名松川から想像するに同じ「松川橋」ということになるのだろう。
菅野氏の話では、浅川の石切り場から切り出したものの、その川に橋を架ける必要がなくなったので譲受けたとのことだ。
形式的には県の仕事なので、欄干に刻まれる代表者は、実質的な代表者戸長杉内省三郎氏の前に、県の工事担当の職員2名の名が刻まれているが、この眼鏡橋は松川村が主体的に架設した橋という事のようだ。
この誇りが、現時点まで「うつくしま土木建築歴史発見」にメンテナンスフリーといわしめる保存状態にかかわっているような気がする。