奥州街道:八丁目天満宮情報から⑤
2017年 07月 23日
このことは、明治政府の神仏分離令によって改変された神社が普通に見える現代では、奇異な感じもする。それで、案内板ではこの事にはふれないのだろうと思う。
ただ、この神社が神仏混淆時代を色濃く残す神社であるという特色は解説したいという事で、拝殿の花頭窓とか、石灯籠に別当「西光寺」が刻まれるといった形式的なことからの説明を試みているのだと思う。
しかし、明治政府の神仏分離令以前は、天神信仰の発足には天台宗・真言宗それぞれの僧侶が関わっていたこともあって、当初から仏教との関わりは強かったということのようだ。神々も仏法による解脱を望んでいるとして神前読経が行われたり、境内に神宮寺が建てられたりしていたという。
天神信仰と仏教との習合には、怨霊や疫神をしずめる御霊会とのかかわりがよく解説される。
元々の天神は火雷天神のようだ。
道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったりしたことがあって、この火雷天神と道真公とが同一視されるようになったのだとか。その怒りを鎮めるため、道真公は神格化され祀られるようになったとのこと。これが、天神信仰と御霊信仰との結びつきのようだ。
前回整理の「忍幢律師」とのかかわりを確認すると、「松川のあゆみ」で忍幢律師が大宰府天満宮分木を当地へ送る話が、次のように紹介されている。
「律師は、幼少の頃より天満宮を信仰していた。ある夜、夢の中に菅公が現れ、『東風ふかば……』の歌を詠じ、話されるのを聞いた。律師は感涙して、大宰府に行き、筑紫の天満宮に籠った。その後、飛梅の分木をいただき、当地へ送ったという」
律師の夢枕に菅公が現れ何かを訴えられたというこの場面と、律詩がすかさず大宰府に行き、筑紫の天満宮に籠って祈ったというあたりに、御霊信仰と結びついた天神信仰のようなものを感じるが、どうだろうか。
ただ、よそ者の自分にとっては、散策を通して得た情報を元に想像するものであって、これは本物ではない。地元の方が生活を通して感じてこそ本物なのだろうとは思う。
地元とかかわらない者には、せいぜい形式的なものから感じ取れる範囲でしかないというのは現実的な事なのかもしれない。
なお、案内板の現在の祭礼をみると、現在は主として学問の神様として祭られるようだ。
このことを天神信仰の変遷として見れば、時代が進んで祈りによって怨霊の働きが鎮まったという事なのだろう。
それで、道真公が本来学者の才覚がある文学者であり、政治家であったことが思い出されたということで、学問の神様として祭られるようになったととらえればよいのだろうと思う。