撮り溜めた写真から⑳~医王寺の石造供養塔群
2017年 06月 30日
前回ここを訪ねた時は、この墓塔と伝えられ石塔を確認しただけで、医王寺の石造供養塔群全体を見ていなかったような気がする。
若い頃、地層の観察の実地学習で、直ぐにその岩場に近づこうとした時に、遠くから煙草を吸いながら一服して全体を眺める事が大切な事なのだと指導されたことを思い出した。
この指導を当てはめると、最初からこの寺の見どころの一つである佐藤氏の墓塔に視点が行ってしまうと、「医王寺の石造供養塔群」全体は見えなくなってしまうよという事に通じる。全くその通りの過ちを犯していたということだ。
今回は、先にこの墓塔の他の石塔群にかかわる案内を素直に読み取ってみる。
案内によると、この石塔群は昭和18年頃に付近の山のものも含めて整理されたものなそうだ。
石塔の形状からの分類できる見え方の説明がある。
その一つは、長方形の厚石や自然石を加工した奥州型板碑とのことだ。
もう一つが、頭部が山形でその下に2条線を刻み、額部・基部を備えた関東型板碑とのことだ。
そこに等とついているから、他の型もあるのかもしれない。ともかくここにはそれらの石塔が60余基保存されているということだ。
しかし、その岩質が、いずれも凝灰岩製であるため、多くは摩滅して種子(梵字)年紀、建立趣旨などが不明だという。ただ、読み取れるものには、弘長・正和・建武・永和などの年号が刻まれているいるものもあることから、鎌倉中期から南北朝のものと考えられるということだ。
詳しく説明されるのは、この写真のやや後ろにのけぞっているように建っている大型の長方形の板碑と、その手前の板碑だ。こちらは、石塔の形状からの分類の解説の「奥州型板碑」だろうと思う。
ちなみに、その手前の板碑は、基部を備えているかどうかは分かりにくいが、頭部が山形であり、よく写真を確認してみるとその下に2条線が刻まれているのが確認できる。ということで、こちらは「関東型板碑」とみたが、どうだろうか。
この石塔を「関東型板碑」のモデルとして写真の他の石塔を眺めると、奥の小さな石塔は山形も2条線もはっきりしないが、額部の形状が似ているということで、こちらも「関東型板碑」かななどと、今までなかった視点で眺めることができる。