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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

撮り溜めた写真から⑭~医王寺②

 寛文4年(1664)信夫郡と伊達郡が上杉領から天領となった時点で、後ろ盾が弱まったことが想像できる。
 「奥の細道臨地研究資料(福島県教育センター)」では、芭蕉が訪れたという元禄2年(1689)には、医王寺はわびしい古寺でしかない景色になっていたのではないかと想像していることと符合する。

 そんな中、「亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑦:福島の建築(12の2)」で整理したように、この寺は何度も火災に遭っては再建されるということを繰り返しているようだ。
 「大鳥城記」によると、現在の立派な本堂や庫裏は、文化2年(1805)に建てられたものと推定されているようだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23441079/

 その本堂の右側に位牌殿がある。
a0087378_614520.jpg ここに佐藤一族の位牌が安置されているという。その両脇に、昭和37年に作成された右に継信の妻「若桜」と左に忠信の妻「楓」の武将の装いをした像がたっている。

 「平野の伝承とくらし」に、「奥の細道」の平野地区にかかわる本文を児童向けに現代の文に直したものがある。
 その医王寺の部分は次のように訳されている。
 「また、直ぐそばの古寺には、佐藤庄治一族の石碑が残っていました。中でも二人の嫁(継信・忠信の妻)のしるしはあわれな話です。女ではあるが、かいがいしいふるまいにまた涙を流しました。
 寺に入ってお茶を飲むとここに義経の太刀・弁慶の背負った笈があり、寺の宝としています。
 笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)」

 しかし、「奥の細道臨地研究資料(福島県教育センター)」によると、ここにはいくつかのフィクションがあるという。
 その一つは、「曽良日記」と照らし合わせると、芭蕉一行は寺に立ち寄っていないのではないかという。
 寺に入ってお茶を飲んだり、寺の宝を観たりはしていないのではないかと想像されるらしい。
 その二は、他の医王寺を訪れた方の記録や「曽良日記」からは、この時代の医王寺には「二人の嫁(継信・忠信の妻)のしるし」の存在が確認できないという。
 「曽良日記」からは、宮城県白石市の甲冑堂に立ち寄ったことが分かる事と、ここには当時2人の像があったらしいことが伺えるという。
 このことから、「奥の細道」本文ではここの像を医王寺の場面に挿入したフィクションだろうとされているようだ。

 「奥の細道」のフィクションの世界が、あたかも現実にあった世界かのように感じられるように環境が整備されている。

 なお、その甲冑堂に散策で立ち寄った事については、先に「斉川宿③~甲冑堂」と「斉川宿④~坂上田村麻呂伝説と共存する甲冑堂」で整理している。
 〇 「斉川宿③~甲冑堂」
 http://kazenoshin.exblog.jp/8341623/
 〇 「斉川宿④~坂上田村麻呂伝説と共存する甲冑堂」
 http://kazenoshin.exblog.jp/8346063/
by shingen1948 | 2017-06-22 09:57 | ★ 季節便り | Comments(0)