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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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撮り溜めた写真から⑨~鎌倉権五郎影政公のその後

 「吾妻の里の自噴泉と伝説」を整理した時点で、この「ふくしま散歩(小林金次郎)」が紹介する鎌倉権五郎影政と家臣の墓の写真を手掛かりにここにたどりついてはいたのだが、そのままにしていたところだった。
 a0087378_5423129.jpg 「ふくしま散歩」では、片目清水の紹介の前に「現在、鳥川の成川に住む矢吹友右衛門氏といわれる」として、権五郎影政の子孫が紹介されていたのだ。

 しかし、時系列に沿って整理してみると、片目清水の頃の鎌倉権五郎影政氏は16歳で、それ以降の生き様の紹介があって、それからその子孫というふうな話にしたいところだ。
 「日本の伝説(柳田國男)」では、そこら辺も心得ていて、安積郡に飛んで以下のように話の紹介になる。
 奥州の只野村は、鎌倉権五郎景政が、後三年の役の手柄によって、拝領した領地であったといって、村の御霊神社には景政を祀り、その子孫だと称する多田野家が、後々までも住んでおりましたが、ここでも権五郎の眼を射られた因縁をもって、村に生れた者は、いずれも一方の目が少しくすがめだといっていました。(相生集:福島県安積郡多田野村)


 安積郡多田野村は、現郡山市逢瀬町多田野地区ということで情報を集めてみる。
 「郡山公式ウェブサイト」の「逢瀬町の伝承・魅力」では、八幡太郎義家公にちなんだ伝説が各地にあるとして、その一つに御霊神社を挙げている。
 この神社については、本来関東における平家5家(大庭・梶原・鎌倉・長尾・村岡)を祀る神社として創建されたそうだが、八幡太郎義家公の家臣である武勇の人鎌倉権五郎景政を祀る神社となったと紹介する。更に、大庭・梶原・長尾氏は景政氏の血縁だとも紹介される。

 その「御霊神社」を確認すると、「福島県郡山市逢瀬町に鎮座し、御祭神は火之夜芸速男神、鎌倉権五郎景政公で、社格は村社」とある。
 由緒ととのかかわりで、祭神である鎌倉権五郎景政公が次のように紹介される。

 「平安時代後期の康治2年(1143年)、鎌倉武士の鎌倉権五郎景政公が東北征伐の際、当地を訪れ浄土ヶ岡に住んでいたという盗賊と大蛇を悉く退治したことによって村民の禍を除いたため、景政公とその御兄弟一族を 「 御霊の宮 」として相殿に祀った。」
 御霊櫃峠伝説もこの伝説とかかわりあっているようだ。

 この紹介だと、景政公が後三年の役(1083~1087)の後半に16歳だったとしても、盗賊と大蛇退治の康治2年(1143年)が、それから56年後ということで72歳ということだ。随分お元気だったようだということになる。
 ただ、郡山の「安積名称考」の紹介だと、景政公は寛治3年(1089)年に死去したとされる説もあるようで、これだと全国的な話の流れでは20代で亡くなったことになるのだが、16歳時の活躍の前提が永承康平(1046~1065)という話になっているようだ。これだと59歳~79歳という事になるようだ。

 ここには、別説も紹介されている。
 奥州での戦いの功により石川郡鎌田の城主となり、68才で没したという伝えもあるとの紹介だ。
 これだと全国的な話の流れとの辻褄を合わせると、亡くなったのは1135~1139ということで、保延元年~4年頃ということになるかな。

 こんな活躍の想像を挟んでから「ふくしま散歩(小林金次郎)」の紹介の最初に戻ると、結構楽しめる伝承になると思うが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2017-06-15 09:40 | Comments(0)