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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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撮り溜めた写真から⑦~鎌倉権五郎影政伝説と片目清水

撮り溜めた写真から⑦~鎌倉権五郎影政伝説と片目清水_a0087378_662029.jpg この写真は、2013/1/13に撮った片目清水。
 先にこの片目清水について「吾妻の里の自噴泉と伝説」で整理しているが、この時は地元の記念誌の片目清水伝説紹介を記した。
http://kazenoshin.exblog.jp/4962802/
 この言い伝えだと、八幡太郎義家の家臣鎌倉権現五郎景政が、後三年の役(1083~1087)で、敵の弓の名人鳥海弥三郎に矢を射られたのがこの地であるような印象になる。
 しかし、新しく「片目清水」に建った案内板の説明だと、「伝説によれば、後三年の役(1083~1087)に源義家に従ってきた鎌倉五郎影政は、仙北金沢の城の戦いで、敵(鳥海弥三郎)に右の目を射られた。しかし、これに臆することなく、影政は目の矢をそのままにして敵を追いこれを射殺した」とある。
 これを「日本の伝説(柳田國男)」の伝承と照らし合わせると、次の「黒甜墳語:秋田県仙北郡金沢町」の伝承を考慮していることが分かる。
 鎌倉権五郎は、八幡太郎義家の家来です。十六の年に奥州の軍に出て、敵の征矢に片方の眼を射られながら、それを抜かぬ前に答の箭を射返して、その敵を討ち取ったという勇猛な武士でありましたが、その眼の傷を洗ったという池があまりに多く、その池の魚がどこでも片目だといっているだけは不思議です。その一つは羽後の金沢という町のある流れ、そこでは権五郎の魂が、死んで片目の魚になったというそうです。ここは昔の後三年の役の、金沢の柵のあった所だといいますから、ありそうなことだと思う人もあったか知れませんが、鎌倉権五郎景政は長生をした人で、決してここへ魂を残して行くはずはないのでありました。

 案内では、そこから直ぐに矢野目の片目清水の話になるのだが、「日本の伝説(柳田國男)」の意図に沿って、伝説を繋いでから片目清水に辿り着いてみる。

 最上の山寺の麓に、鳥海の柵の址だという景政堂があるそうだが、次に景政はここを訪れる。ここにも権五郎が目の傷を洗った池があって、片目の魚が住んでいるのだとか。(行脚随筆:山形県東村山郡山寺村)

 更に、荘内の平田の矢流川という集落に、古い八幡の社があるそうだが、その前の川でも権五郎が来て目を洗ったとのこと。その川のかじか(河鹿)魚は、皆片目なそうだ。(荘内可成談等:山形県飽海郡東平田村北沢)

 驚くべきは、権五郎は、そこから遠く信州の南の方の村にいっているようで、信州飯田から少しはなれた上郷村の雲彩寺にいたことがあるとのことだ。その庭に、杉の大木の下から涌いている清水があって、そこにいるいもりは左の眼が潰れているとのことで、清水の名はうらみの池というそうだ。(伝説の下伊那:長野県下伊那郡上郷村) 

 それから、矢野目の西南隅、字清水前にある清水に来て、その清水で目を洗った不思議に目の傷は治ったという片目清水の案内に結びつけてみる。
 この清水(泉)に生息する小動物(フナ・ドジョウなどの小魚類)は不思議にどれも片目であり、人々のかわりに片目になる。眼病の人々は、ここで眼を洗い治療するという。
 南矢野目の甲塚は影政が脱ぎ捨てた甲を村人が恐れて埋めた所であるといわれているという。(福島市史)
by shingen1948 | 2017-06-14 10:02 | ★ 季節便り | Comments(0)