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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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撮り溜めた写真から⑥~弁財天堂の石塔群から「庚申塔」(笹谷熊野神社境内)

 「大国主大神」碑の後ろに並ぶのは、定番の「庚申塔」だ。
a0087378_1315561.jpg 「大国主大神」碑を写した時に、端の「庚申塔」の建立年代が写りこんでいて、「大正〇10丑年12月吉日」が読める。この年の干支は丁丑のはずだが、そこまでははっきり読めない。
 
 一般的に、「庚申塔」は、「庚申待」を3年18回続けた記念に建立されるという。
 最後の「庚申塔」建立が大正10年で、その3年後に「大国主大神」碑が建立されているという事は、連続性のある行為ということになるのではないだろうか。

 その前に、7基の「庚申塔」が並んでいる。
 その時代を確認すると、次の塔が「〇政元  寅」と読める。政のつく年号で千子が寅は、安政元年(1854)だ。
 月は読めないが、この年の11月27日に改元しているとの情報を重ねれば、建立は安政元年11月か12月ということになる。この年の干支は甲寅だ。
 
 更にその次が、寛政10年(1798)8月が読める。
 この年の千子は戊午。戌が右に、午が八月の上部左側に読める。

 その先の石塔建立年代は読めないが、要は古い順に7基の庚申塔が並んでいるということだ。

 一般的には、神社裏の石塔群の大部分は、街道筋などに置かれた庚申塔や道祖神などの石塔の整理に伴い寺院や神社境内の隅に済に追いやられたものと想像する。
 明治政府の神仏分離令による神仏習合の廃止、仏像を神体とすることの禁止などの影響で、庚申信仰などの民間信仰は迷信と決めつけられることになったことや、街道の拡張整備工事などが重なったことによる風景と見るのが普通だと思う。

 しかし、この地区では大正時代まで庚申待が継続的に行われていて、その連続として甲子講に移ったと推測することができる。
 ということは、この地区の講にかかわる石塔や石碑は、隅に追いやられるというイメージではなく、この弁財天裏が講にかかわる碑を建てる定位置だったのではないかと想像するのだが、実際はどうなのだろうか。
 
by shingen1948 | 2017-06-11 13:18 | ★ 季節便り | Comments(0)