森鴎外と福島33
2017年 02月 13日
具体例を拾う。
例えば、松木明氏が、昭和28年(1953)頃から「渋江抽斎(森鴎外)」の史伝を資料として、津軽の医学史の研究を開始しているという。そして、昭和42年(1967)には「渋江抽斎 人名誌(孔版)」を上梓し、昭和56年(1981)にはそれを改訂して津軽書房から出版しているという。
その過程において、鷗外氏が、渋江抽斎氏にかかわって弘前の北辰日報の記者であった中村範に宛てた書簡6通が見出されたり、抽斎氏の孫の渋江乙女氏が青森市浅虫在住である事が分かったりしたとのことだ。
津軽地方の医学史、疾病史の研究に直接的にかかわるのは、史伝の中に出てくる「直舎伝記抄」なのだそうだ。これは、抽斎の編になる弘前藩江戸屋敷の宿直医官の日誌なそうだが、その原本とも言うべき宿直医官の日誌は1冊も現存していないという。その意味でも、この「直舎伝記抄」は貴重な資料なのだという。
また、このことからは、抽斎氏が弘前藩の医学の歩みに関して何らかの著作計画があったとも推定できるとしている。
内容的には、それまで全く伝が不詳であった弘前藩江戸定府の医官桐山正哲の事績が、この「直舎伝記抄」によって明らかになったという。この桐山氏は杉田玄白氏が「解体新書」を翻訳した時の仲間の一人であったが、本草学に詳しく弘前藩江戸屋敷で本草学の講書を行っていることが明らかになったのだとか。
「直舎伝記抄」 は一地方の医学史的資料にとどまらず、全国的な医学史研究にとっても主要な資料であることも強調される。江戸時代の藩の宿直医官日誌が遺されている例がないとのことだ。
鷗外氏が借覧したのは、富士川游氏が所蔵していたこの資料なそうだ。
ただ、鴎外氏が借覧したのは8冊とのことだが、その現存が確認できていたのは慶応大学医学部北里記念図書館所蔵小型本6冊で、2冊の所在は不明だったという。
後に、松本明知氏は、その2冊の資料の写本が渋江乙女氏宅に秘蔵されていることを知り、漸く許可を得て、昭和60年(1985)に「直舎伝記抄」を出版したとのことだ。