森鴎外と福島30
2017年 02月 09日
その後書きによると、大正6年(1917)10月1日発行の雑誌「帝国文学」第23巻第10号及び大正7年1月1日第24号第1号に「森林太郎」の署名で掲載されたものとのことだ。
「わたしは目下何事も為していない。只新聞紙に人の伝記を書いているだけである」とあるので、これ等の作品を書いている時期であることが分かる。
この作品を「黒潮」の評論家が塚原蓼洲君の二の舞だと評した事を耳にしたとして、その反論の形で、これらの作品について、次のように述べている。
併し、蓼洲君は小説を作った。わたくしの書くものは、如何に小説の概念を押し広めても、小説だとは云はれまい。又蓼洲君は人の既に書いた事を書いた。わたくしは人の未だ書かなかった事を書いてゐる。二者の間にはこれだけの差があるに過ぎない。併し文章にこれだけの差があれば、全く違ふと云っても差支はあるまい。
何故に伝記を書くかと云ふに、別に廉立った理由はない。わたくしは或時ふと武鑑を集め始めた。 そして、武鑑を集めて研究した人に澁江抽斎のあることを知った。それから抽斎が啻に武鑑を集めたのみでなく、あらゆる古本を集めて研究したことを知った。それからその師友に狩谷棭斎があり、伊沢蘭軒があり、小島實素があり、森枳園があることを知った。
わたくしは此人々の事蹟が、棭斎を除く外、殆ど世に知られてゐぬことを知った。そしてふとその伝記を書き始めたのである。わたくしは度々云った如く、此等の伝記を書くことが有用であるか、無用であるかを論ずることを好まない。只書きたくて書いてゐる。
わたくしは先づ抽斎を公にし、次に蘭軒を公にした。その内わたくしは多くの未知の人の書状に接した。皆わたくしの書くところのものを以て無用となし、わたくしを非難するのであった。
併し幸に新聞社が耐忍してわたくしをして稿を終らしめた。
鴎外氏は、この伝記を小説として仕上げようとしていないことが分かる。文学好きの読者に評判が悪いというのは、小説の作品としての期待感が大きいことのあらわれだろうか。
それに対し、これ等の作品にかかわる地域の散策情報が結構多いと感じるのは、鴎外氏の未知なることへの学問的な追及の姿勢にたいする共感なのだろうと思うが、どうだろうか。