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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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森鴎外と福島27

 「渋江抽斎(森鴎外)」その2で、 抽斎氏は躋寿館(せいしゅかん)の講師になったことが紹介される。
 作品では、躋寿館は明和2年(1765)に多紀元孝が医師の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾から出発し、寛政3年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし医学館と改称規模を拡大したものであることは紹介される。
 ただ、この多紀元孝氏が幕府奥医師の漢方医であることや、次のような江戸時代の医学事情により、幕府公認の漢方医学と蘭方医学は、明治に至るまで互いにしのぎを削っていたという背景については、読者は既に知っているものと想定されているようだ。

 江戸時代、蘭方医学が追い風の中にあって、漢方を日本の医学の主流として伝統を守ってきたのが多紀氏の考証派とのこと。
 この多紀氏というのは医学界では著名な丹波康頼氏の後裔で、18世紀始めに京都から江戸に移り、幕府に仕えて姓を多紀に改めた方なのだとか。
 従って、抽斎氏が講師となった躋寿館は、漢方医学の医学館で、進出著しい蘭方に対する漢方巻き返しの拠点として期待されたようだ。ただ、考証派の学問は科学性に欠ける為にこの医学塾は後に明治新政府に接収され、廃絶されたそうだ。
 もう一方の江戸の蘭方医達はこれに対抗する為に神田お玉ヶ池に種痘所を構え、蘭方進出の拠点にしたという。幕府は、こちらも直轄としたということだ。

 「渋江抽斎(森鴎外)」その2では、抽斎の著書も紹介される。
 その中で、「経籍訪古志」が中心に紹介される。
 これは、わが国に伝存する漢籍の古写本、古版本を解説した書とのことだ。安政3年(1856)宋・元・明や朝鮮の古版本、わが国の慶長(1596~1615)以前の古写本や古活字版などを収め、書名、巻数、所蔵者、序跋、奥書、蔵書印記などを詳細に記録していて、江戸期における書誌学最高の業績ともいうべき書なのだとか。(日本大百科全書解説より)
 共著なのに、この著者として森立之(たつゆき)(枳園(きえん)氏が紹介されることが多い。
 ここではその事情がさらりと説明されるのだが、この書が森氏と共著である事が、次の展開の伏線になっているようだ。

 ここでは、「四つの海」や「護痘要法」の著書もさらりとの紹介される。これも次の展開の伏線のようで、「四つの海」では、富士田千蔵の名で公にしたことが紹介され、「護痘要法」は抽斎が術を池田京水に受けて記述したことが紹介される。

 福島とかかわる池田家宗家の話に絞れば、その2の抽斎が術を池田京水に受けて「護痘要法」を記述したという事が、その14からその20まで池田家宗家について描くことの伏線としているということのようだということ。
by shingen1948 | 2017-02-04 09:04 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)