森鴎外と福島⑫
2017年 01月 17日
この時の鴎外氏の立場を年譜で確認すると、明治40年(1907)10月陸軍軍医総監・陸軍省医務局長とあり、これは7年前の話だが、この時点まで変化はなさそうだ。というのは、これが軍医として最高位で、その上がないからだ。
軍医総監は、従来は少将相当官だったのだが、明治30年にこの役職は軍医監(少将相当官)となって、新たに軍医総監(中将相当官)が設けられたとのこと。(明治30年勅令第35号)。従って、鴎外氏は中将相当官だったということだ。
その軍医総監任官者の陸軍軍医総監(中将相当)を確認すると、その6代に森林太郎氏が見え、その任官日が明治40年11月13日となっていて、年譜とは微妙な違いがある。主な補職としては、陸軍省医務局長が記される。
陸軍省歴代医務局長任官者を確認すると、その7代に明治40年11月13日に森林太郎氏の就任が記される。その階級位階勲等功級には、陸軍軍医総監正4位勲等功3級、医学博士文学博士とある。
この旅の目的と経過を、「鴎外全集」の大正3年5月の日記で確かめる。
以下がその4日の記載だが、ここからその目的が読み取れる。
4日(月)晴れ。東北地方を巡視せんために、上野を発す。別に記あり。夕に仙台に至る。
7日に仙台を発ち、盛岡に向かう。
8日に盛岡を発ち、9日に札幌に着く。
11日に札幌を発ち、旭川に向かう。
13日に旭川を発ち、14日に弘前に着く。
17日に弘前を発ち、山形に向かう。
18日に山形を発ち、飯坂に向かう。
19日に飯坂を発ち、東京に帰る。
4日に記される「別に記あり」について、「鴎外全集」後記には「大正3年5月4日に東北地方巡視のため上野を発した記事があり、中に『別に記あり』といふのは『北遊記』(今回の全集第26巻所収)を指しているのである」とある。