地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

森鴎外と福島⑪

 鴎外氏が北越に徴兵の業務遂行の旅に出発したのを2月8日とした。
 これを2月13日に修正する。

 2月8日としたのは、自記材料に「2月7日第一軍管徴兵副医官を命ぜらる」があって、「8日、徴兵に北國に出立つ(北游日乗1巻あり)」とあったからだ。
 しかし、その「北游日乗」には、「2月13日官事にて北陸へ往かんとて……」と記されていて、14日に古河に着いているとある。こちらが自然なので、修正する。
 その13日に、鴎外氏は小綱町三丁目の河内屋で券を買って、新大橋から通運丸という船に乗るのだが、「北游日乗」資料で、その川蒸気船「通運丸」が解説される。

 「通運丸」は、内国通運株式会社(日本通運株式会社の前身)が、この当時利根川水系に就航させていた蒸気船とのことだ。明治10年開業。
 利根川水系は度重なる土砂の堆積で浅瀬が多いので、船は外輪式だったという。船体は、木造で白と黒の2色に塗り分けられ、中央部分の半円型の水かきカバーに通運丸の字が描かれている。航行中に低い橋下を通過するときは、船体中央部の黒い煙突を二つに折り倒したのだとか。
 ネット上では、その姿も確認できる。
 この交通機関として日常的に運航する蒸気船は、鉄道に次ぐ壮大な事業であり、船体も瀟洒だったので、江戸っ子達の人気の的だったのだそうだ。

 その航路は、隅田川から小名木川に入り、新川(舟堀川)、江戸川下流を経由する行徳航路のルートを航行。
 市川の国府台の下を通り、夜を徹して江戸川を遡行し、関宿付近で利根川に入ったあと、栗橋の北で渡良瀬川に進んだとのことだ。
 東京出航後の寄港地は、行徳、市川、松戸、流山、加村、新川、野田、宝珠花、関宿、境、 栗橋、中田、古河に寄港したということだ。

 先日ふれたのは、その船旅の景色を楽しんで詠んだ詩の一部だが、その全体は、つぎのようだ。

 松下豪遊憶昔年
 懸崖今夜此停船

 烟雲冥處鱗光動 
 疑是髯龍騰九天

 古跡並存刀水濵
 棲然麗涙薦溪蘋
 如今誰復問軽重
 弔龍英雄弔美人

 ※ 「懸崖」=壁にしがみつくように生きる樹々を模したもので、生命力のたくましさや自然の厳しさなどさまざまなものを表現する。
 ※ 「蘋」=かたばみも。でんじそう。デンジソウ科の多年生シダ植物。
うきくさ。

 今回の確認で、鴎外氏の作品を読むのに壁になるのがこの漢詩だ。
 そのの素養のなさは実感するが、氏のそれが高すぎるのも一因だろうと思う。
 「森鴎外と中国文化~その漢詩から見て(陳 生保)」では、その鴎外氏の水準の高さの源について解説する。その概略は、次のようなことだ。

 鴎外氏は、5歳の時には「論語」の素読を受け、10歳からは養老館で四書五経、左国史漢の類の漢籍を勉強していて、上京後も漢籍漢文、漢詩の学習はつづけていたという。
 はじめは、同じ向島の隣近所に住んでいた竹馬の友伊藤孫一氏といっしょに勉強し、後に明治時代の著名な漢学者である依田学海氏に師事し、漢文の添削を受けるようになったという。

 鴎外氏の漢詩の師については、次のように紹介する。
 啓蒙の師は伊藤孫一氏であり、正規教育の師は佐藤応渠氏である。そして、中・壮年時代の師は横川徳郎氏であり、晩年の師は桂湖村氏というふうに、鴎外は生涯漢詩を学び、作り続けたのだそうだ。
by shingen1948 | 2017-01-16 09:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)