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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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森鴎外と福島⑧

「佐藤元長(應渠)」氏は、戊申の役後は、千住で医業を営み、私塾を開いて近在の子弟教育を行うことになるようだが、ここで森鴎外氏と出会うとのことだ。

接点の頃を、森鴎外氏の年譜で確かめる。

明治12年(1879) 父静男が南足立郡設置とともに東京府から郡医を委嘱さる。これに伴い、居所を千住に移し、橘井堂医院を開いている。

明治13年(1879)には、鴎外氏は寄宿舎を出て、本郷竜岡町の下宿上条に移る。そして、この頃に、「佐藤元長(應渠)」氏に漢詩を、依田学海氏に漢文を、福羽美静氏、 加部巌夫氏に和歌を学んだとされる。

ただ、ウィキペディアでは、明治5(森鴎外13歳)の時に森静男一家が上京し、静男はその男子を佐藤に入門させるとあり、静雄氏は佐藤氏とは旧知の仲であったとあるので、この時代から出入りがあった事も想像される。

森静男一家の動向も年譜で確かめておく。

鴎外氏は既定の年齢に達していないので、年齢を偽ってた第一大学医学校予科に入学するのが、明治6年12歳の時。この時に、祖母、母、弟、妹も上京する。

戸籍を東京に移すのは、二年後の明治8年で、年譜ではこの時が13歳。

翌明治9年に、医学校が下谷和泉橋から本郷の加賀邸跡に移る。鴎外氏は、その寄宿舎に入る。

父静雄氏が、佐藤氏のいる千住とかかわるのが、明治10年で、この時に、千住の東京府区医出張所の管理を任されるようだ。その翌年に区医となる。

そして、先に記したように、明治12年には千住に居所を移し、橘井堂医院を開いている。

年表を確認していくと、鴎外氏のエリート教育ために森静男一家は動いているという感じがする。

なお、明治14年に東京大学医学部を卒業した鴎外氏は、父の経営する橘井堂医院に転居し、以後、ドイツ留学までの4年間(~明治17年まで)、父の医療を手伝いながら、人力車で陸軍病院に通っていたということだ。

従って、現在整理中の「明治15年」は、その真っただ中という状況のようだ。


by shingen1948 | 2017-01-12 09:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)