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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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森鴎外と福島⑦

 「北游日乗」に記される詩歌をもって鴎外氏を見送られた「佐藤應渠」師について確認したら、会津藩士だった。

 「應渠」は号で、一般的には「佐藤元長」氏で検索できるようだ。「ウィキペディア」で概要を確認し、会津の地域情報で補正した情報は、以下のようだ。


  文政元年(1818)~明治30年(1897)

天保14年(1843)に江戸詰御医師として五人扶持を給されて、幕府奥医師である多紀元堅に医学を学び、直ぐに多紀塾の塾頭となる。

会津で知られているのは、ペリー来航の時に伝わった西洋式の種痘法を探求し、嘉永6年(1853)に、会津に帰って施術を広めたという事のようだ。

その後、安政4年(1857)には、幕命によって幕府医学館医書正となり、翌年講師となり、万延元年(1860)には教授に就任する。

文久3年(1863)には、将軍家茂に拝謁、袋杖登城を許される。

幕末には藩命によって京へも赴いているという。

戊申の役後は、千住で医業を営み、私塾を開いて近在の子弟教育を行う。

後に、茨城県下妻町の温知病院長に就任する。

森鴎外氏とかかわるのは、「戊申の役後は、千住で医業を営み、私塾を開いて近在の子弟教育を行う」の時代に、18歳の鴎外氏が入門してきたということのようだ。

実は、会津の種痘の話は、「大河ドラマ視聴『八重の桜』よそ見編Ⅱ②」でふれている。

 http://kazenoshin.exblog.jp/17507398/

  「種痘なんかしたら、みすみす命を落とすようなもんだ」という噂が広がって、領民ばかりでなく、藩士の家族ですら尻込みしたという状況だった時、八重さんのお母さんである佐久さんは城下の女性達に種痘の効用を説いて周り、八重さんと三郎さんに率先して種痘を受けさせたという話だ。

 この時に、「海老名季昌」氏とのかかわりを推定してみたところだった。しかし、この時に、会津にこの施術を持ち込んだ方にまで意識が及ばなかったのはうかつだったと思う。


by shingen1948 | 2017-01-11 09:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)