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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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森鴎外と福島②

 「МASA氏が「川定楼」を見つけ出したのは「遊郭地移転以前に営業していた貸座敷名の川定楼」とのことだ。
 http://blogs.yahoo.co.jp/ssyinb27/12620027.html
 ここで「遊郭地移転以前」とあるその「遊郭地移転」について、「清明学区の歴史」では、矢剣町とのかかわりで次のように解説する。
 明治35年(1902)頃、北町、豊田町周辺にあった遊郭が町の中央では風紀上悪いというので時の福島町長の鈴木三郎兵衛氏が瀬上と野田地内にあった一本杉(一般に新町といって遊郭の代名詞になっていた)に移すことに決めた。

 その一本杉に移った遊郭については、次のように解説する。
 その当時の遊郭には、渡利楼(現在警察寮)、湯野屋(Kさんの所)、花野屋(現在w医院後後改名されて万勝楼)、丸井楼(改名新盛楼)、大野屋、吉野屋、高木屋(後で主人が変わり開盛楼支店)、吾妻楼(後で明楼―栄楼に改名)、常磐楼(山形より支店を出す)、えびすや(すぐに廃業)等が軒をつらね一軒で7、8人から12、3人の遊女をかかえて営業していた。
 その当時、瀬上地内では7軒で営業していた。

 その7軒は、別資料で以下が確認できる。
 普盛楼(中山)、今出楼(支店)(壱岐)、花月楼(羽田)、緑楼(小野)、今出楼(本店)(壱岐)、備中楼(二瓶)、今加楼(金子)

 この移った遊郭に「川定楼」が見えないということだが、二つの事が考えられる。
 移る時に名を変えたということと、移動しなかったという二つの場合だ。後者なら、古い地図にその名が見えるはずという期待だったということだが、これが確認できなかったということだ。

 この事は、曖昧な情報が否定され切ることができないという事も意味するのではないかという事だ。
 「ふくしま散歩(小林金次郎)」では、大正の初年で、杉妻町の松葉館(現在大仏荘※現在は杉妻会館)に泊まったとする。この情報が、最近は年代的にも場所的にも根拠がないとされている。
 多分、その通りなのだと思うのだが、位置的にも関り的にも「川定」とは別物と言い切るほどの確認は進んでいないように思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2017-01-05 09:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)