地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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森鴎外と福島

 前回まで、「伊沢蘭軒(森鴎外)」と福島ということで、福島市大町在住の池田家宗家末裔鑑三郎氏が、森鴎外氏に提供した情報の確認をしてきた。
 その池田家宗家末裔鑑三郎氏の福島での情報を確認する手立てがないので、とりあえず古い地図で、福島市大町近辺を眺めてみた。
 自由業ならその冠に「池田」とつくはずという期待もあったが、その手掛かりもなく、空振りだった。ただ、今ではビル街になっている付近にも、個人宅が沢山あったらしいという雰囲気は感じられた。

 この地図を眺めていたら、大原病院の福島城大手門通りを挟んだ東側に「玉盛館」・「川合亭」が隣り合ってプロットされているのが、気になった。
 鷗外氏は、公的な用務で東北・北海道へ2回旅をしているのだが、明治15年(1882)9月にも福島市を訪れている。その時に宿泊したのが「川定家」とのことだ。
「 МASAの道中日記」では、「福島公娼史」を資料に「遊郭地移転以前に営業していた貸座敷名の川定楼」を想定しているようだ。
 http://blogs.yahoo.co.jp/ssyinb27/12620027.html
 学生時代、遊郭から旅館や下宿に変化したりしたところに遊びに行ったこともあるので、それ程不自然な想像だとは思わない。
 その宿が、プロットされていてもよさそうに思ったのだが、これが見当たらない。それで、名前が似ているこの「川合亭」が気になったというだけのことで、確かな事は分からない。

 この時の鷗外氏の日誌が「後北游 日乗」とのことだが、まだこちらを確認していない。いろいろの資料からの孫引きの状態だが、メモしておく。
 この日記は、明治15年9 月27日から11月6日にかけて函館、青森、仙台、福島、新潟、高崎を旅したもので、東部検閲監軍部長である陸軍中将三好重臣の属員として、徴兵の業務に従事したものという。
 その概要は、以下のようだとのこと。(「МASAの道中日記」からの孫引き)
 9月27日横浜から兵庫丸に乗船-9月30日函館着、五稜郭などを見学-10月3日箱館から浪花丸に乗船、青森濱町の鶴屋に宿泊-10月9日盛岡六日町の斉藤家に宿泊-10月12日~18仙台國分町の針生家に宿泊、10月19日増田、大川宮(原)を経て白石から馬車で福島に向かい川定家に宿泊-10月20日本宮水戸屋に宿泊-10月21日会津城をみて、東山に遊び若松七日町藤田家に宿泊-10月22日以降新発田等を経て関東に戻り、11月17日に帰京

 なお、針生旅館の元々が花街とかかわるかどうかは知らないが、多分、仙台では一流旅館の一つとされているはずだと思う。
 また、「後北游日乗」では青森濱町の鶴屋に宿泊したと記しているのだが、青森の資料では、これは鷗外の誤記で、実際に宿泊したのは「滝屋」だとされる。宿帳の記載から実証されることなのだそうだ。
 鴎外氏が「火後、ただでさえ寒ざむしいこの里は愈々寂しい」と歌ったことにかかわって、鷗外氏たちが宿泊 した「滝屋」の主人伊藤裕之の備忘録で9月30日と10月3日の二度大火があったこと傍証されるのだそうだ。(森鴎外と「北遊日乗」、「北遊記」―函館、青森を中心としてー【松木明知】より)
by shingen1948 | 2017-01-04 08:23 | Comments(0)