「伊沢蘭軒(森鴎外)」と福島
2016年 12月 28日
その中で気になったのが、その87で「池田錦橋」氏とかかわる子孫の方が福島市大町に在住されることが読み取れることだ。熊阪氏探索としては余談になるが、こちらも確認しておくことにした。
作品では、まずは「池田錦橋」氏と伊沢蘭軒氏とのかかわりが説明され、その後、次のような経歴が説明される。
錦橋は始て公認せられた痘科の医である。本(もと)生田氏、周防国玖珂郡 通津浦の人である。明の遺民載笠字は曼公が国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父崇山が笠を師として痘科を受けた。
錦橋は宝暦12年に広島に徙(うつ)り、安永6年に大坂に徙り、寛政4年に京都に上り、8年に徳川家斉の聘を受け、9年に江戸に入つた。
錦橋は初め京水を以て嗣子となしてゐて、後にこれを廃し、門人村岡善次郎をして家を襲(つ)がしめた。京水は分家して町医者となつた。
錦橋と其末裔との事には許多の疑問があったとし、その調査の経緯が述べられることを要約する。
まずは、いろいろな資料を集め調べたようだが、満足いく解が得られなかったようだ。それで、墓石を探し当てて墓誌の全文を読もうと思いつく。ところが、嶺松寺が廃寺するときに、墓石は処分されていたとのことだ。
この墓石処分が、明治以後盛に東京府下で行われ「金石文字は日々湮滅して行くのである」と愁いた後、この墓石捜索で、錦橋と其末裔の重大なる事実を知る機会を得た事が記される。
そのきっかけが、「(前作)抽斎伝を草し畢つた後、池田宗家の末裔と相識ることを得た」ことだ。
この池田宗家の末裔というのが、瑞仙(錦橋のこと)の家の第五世池田鑑三郎氏で、この方が、この時代に福島市大町に在住されていたようなのだ。
作品では、次のような経緯が記される。
或日鑑三郎は現住所福島市大町から上京して、再従兄窪田寛さんと共にわたくしの家を訪うた。啓の父清三郎の子が主水、主水の子が即寛で、現に下谷仲徒士町に住してゐる。
わたくしは鑑三郎に問うて、池田宗家累世の墓が儼存してゐることを知つた。