高子から全国に発信される文学活動⑦~熊阪台州氏⑬
2016年 12月 25日
「レファレンス協同データベース」の市川市の次のような事例だ。
森鴎外の「北游日乗」(鴎外全集第35巻 1971)に、真間の手児奈の祠に詣でた際の詩を挙げ、「てこな」とは「蝴蝶」のことであることを熊阪子彦の説によったと述べている。この熊坂子彦の説とはどのようなものであったのか知りたいという問いだ。
そこには、「最是傷情蝴蝶祠、熊阪子彦の説に氐胡奈とは蝴蝶の義なりといへるに據りたりとあり、万葉集に記される『真間の手児奈』のテゴナも蝶にちなむ名であろう」という記述があるようだ。
ここから、明治時代の文豪森鴎外氏が「西遊紀行(熊阪台州氏)」を参考文献と引いているということに注目して話を展開してきた。
「北游日乗」は森鴎外の日記であり、地域史家の人達は、地域の史跡等に森鴎外氏がどうかかわるかを確認するのにあたることが多い。この場合も、「真間の手児奈」に関する史跡に森鴎外が訪ねる痕跡を確認している中での問いなのだろうと想像できたが、その内容についての確認はしていなかった。
今度はその確認をしておきたいのだが、その為には、素養として知っていなければならない事がある。その持ち合わがないのだ。
暫くは、巷で批判されているコピペでの確認をしていくしかない。
この問いで、当然素養として知っていなければならない事は、「真間の手児奈」に関する史跡の事と、この「真間の手児奈」に関する言い伝えに関することだ。
これ等は既知の事だとの前提で発せられている問いなのだ。まずは、この事について「ウィキペディア」で確認する。
「手児奈」は、勝鹿(葛飾)の真間(千葉県市川市)に、奈良時代以前に住んでいたとされる伝説の女性とのこととある。
この手児奈は、舒明天皇の時代の国造の娘なそうだが、一度近隣の国へ嫁いだが、嫁ぎ先の国との間に争いのために、再び真間へ戻ったのだそうだ。
嫁ぎ先より帰った運命を恥じて、実家に戻らずに、我が子を育てながら静かに暮らしていたのだそうだ。しかし、男達は、手児奈を巡って再び争いを起こしてしまうという。その位持てたということだ。
このことが嫌になった手児奈は、真間の入り江に入水してしまったのだという言い伝えがあるらしい。
史跡としては、その手児奈を祀ったとされるのが「手児奈霊神堂」ということで、入水地とかかわるというのが「真間の継橋」ということのようだ。
この伝説は、この真間の地に国府がおかれた後、都にも伝播し、詩人たちの想像力をかきたてたという。その代表作が、万葉集の高橋虫麻呂や山部赤人によって詠われたものだとの紹介が多い。
この程度の最低限の知識で、事柄としては理解できそうだ。ただ、文人が興味を持っているというその心情まで察するのには、その作品にふれることまで予備知識として必要になるのだと思う。