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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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高子から全国に発信される文学活動⑥~熊阪台州氏⑫

 熊阪氏の出について「うつくしま電子辞典」では、中村(現保原まち)の大商人の家の長男として生まれ、享保年間結婚と同時に高子村へ移り住んだと紹介する。
 http://www.gimu.fks.ed.jp/shidou/jiten/cgi-bin/index.cgi?sheet=detail&name=%A4%AF%A4%DE%A4%B5%A4%AB%A4%CF%A4%EA%A4%E7%A4%A6&area=%B0%CB%C3%A3%BB%D4&hen=jn
 「みちのく伊達の香り」のページでは、「永慕編(先考覇陵山人行状)」をもとに詳しく解説される。その解説から血縁関係を中心に読み取ってみる。
 http://datenokaori.web.fc2.com/index.html

 覇陵氏は、血縁的には宝永6年に父熊坂太治右衛門氏と母エンさんの間に保原中村で誕生するようだ。
 しかし、実父が死去したために、母エンさんは、二人の子と共に父の実家太左衛門助利(長兄)家に引き取られたのだという。(その二人子というのが長男の覇陵氏と、次男四郎右衛門氏ということのようだ)
 この熊阪家は、伊達郡きっての豪商で、当時領主梁川藩主松平氏の御用達商人だったという。その家督を継いでいた長男の太左衛門助利氏は、町年寄を勤めるなど人望もあり、学問才識も兼ね備えた人物でもあったとのことだ。
 その太左衛門氏が、江戸で知りあった児島定悠氏をエンさんに婿入りさせ、熊坂の姓を名乗らせたが、エンさんの連れ子二人は太左衛門氏の養子としたという。これに伴い、定悠・エン夫妻は、新宅に出されたとのことだ。

 覇陵氏の義理の父である児島定悠氏は、覇陵氏を仏門に入らせたのだが、太左衛門氏は、怒ってその寺から強引に奪い返して「千載」という名を与えたのだという。 
 この「千載」というのは、中村の熊坂家当主が代々世襲してきた幼名だったのだとか。

 「うつくしま電子辞典」では、「覇陵氏を中村(現保原まち)の大商人の家の長男として生まれた」としているが、正確にいえば、複雑な事情があって「長男らしい扱いを受けることになった」という事のようだ。
 その覇陵氏は、太左衛門氏の教育指導で英才教育を受けて、子供のころから漢文に長け、諳んじている文章がたくさんあったという。剣術や弓術も身につけ、書も得意であり、将棋や尺八も上手であったとのことだ。

 享保19年(1734)、覇陵氏は、26歳で秦豊重氏の養女ヤツさん(16歳)と結婚し婿入りする。このヤツさんは、血縁的には熊坂太左衛門氏の次女であり、覇陵氏にとっては従兄弟にあたるようだ。
 この結婚を機に、覇陵氏の婿入りした秦氏は高子村に移住することになるようだが、その経緯についても複雑な事情があるようだ。

 熊坂太左衛門氏には、覇陵氏の父太治右衛門氏の他にもう一人の弟熊坂太七氏がいたのだが、この方も亡くなっているようだ。覇陵氏は、この熊坂太七氏の菩提を弔わせる役割を担わされたということとかかわるようだ。
 まずは、太七氏の墓を中村の長谷寺から高子村へ移して改葬させて、太七氏の墓守(後継者)として豊重・覇陵父子を高子村へ移住させたのだそうだ。
 次に、その苗字を秦氏から熊坂氏に替えさせたという。これが享保20年の高子熊阪氏の誕生なのだとか。

 覇陵氏の父太治右衛門氏の方の菩提だが、こちらは覇陵氏の弟四郎右衛門氏に弔わせ、家を下保原村十日町に再興させたという。
 そして、本家の方だが、兄の多作助友氏が、太左衛門自身の長女の婿養嗣子とし、後に太左衛門を襲名させているとあるのだが、この兄というのが、誰の兄なのか自分には読み取れなかった。

 なお、太左衛門氏には唯一の男子義州氏がいたそうだが、この方は僧門に入ったのだそうだ。この義州氏は、高子に隠泉庵を築いて、熊阪台州氏には学問上の多大な影響を与えたのだそうだ。
氏は、後年栃木県佐野の本光寺を経て、広島県国泰寺へ移り、ここに没したのだそうだ。
by shingen1948 | 2016-12-24 10:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)