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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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高子から全国に発信される文学活動⑤~熊阪台州氏⑪

 前回は、森鴎外史伝三部作第二「伊沢蘭軒」で、語り手が、盤坂と誤記される熊阪盤谷氏が、熊阪台州、熊阪覇陵氏とかかわる熊阪盤谷氏と同一人物であると推定したことを確認した。
 作品の中では、もう一つの推定が読み取れる。
 五山の言は、磐谷から3世以上に及ばないが、伊沢蘭軒の「君家先世称雄武、遺訓守淳猶混農」から、熊阪氏の祖先は武士であったろうとの想像だ。

 一般的に漢詩文の素養は、近世の支配階級や知識階級の者だけの文化活動として行われていたものであったことからの想像ではあろうとは思う。
 しかし、この作品のガイダンス的な解説を眺めれば、作品に武士の品性のようなものを感じていることが付加されているように思う。

 この作品は、小説にするには記録に乏しい井沢蘭軒を取り上げ、未公開の詩文を引用駆使して作品に仕上げているという。
 作品の中で、素人歴史家を自認する鴎外氏が、その困難性を乗り越えてまで表現したかったことがあるという。
 それは、「時代は沈静であったが、その中で生きる人々は、その沈静な雰囲気の中で、それなりに円熟した生を生きていた」ことであり、それを抉り出したかったということだ。
 作者である鴎外氏は、文化文政時代という円熟した小宇宙の静かな雰囲気に郷愁のようなものを感じて、そこに生きる人々の間の人間的で親密な情愛の交わりに、心の安らぎを感じていたとされる。
 鴎外氏は、この作品の評判が悪いことについて、歴史なるが故であり、その往時を語るが故であって、文が長くして人を倦ましめた故ではないと弁明しているとのことだ。
 その思いの中で「熊阪氏の祖先は武士であったろう」との想像には、この素人歴史家を自認する鴎外氏の上記のような世界観から見だ肯定的な品性が付加されていると想像するのだ。

 実際には、熊阪氏は保原商人の出で、しかも、複雑な事情が絡んでいるらしい。覇陵氏が高子に居を構えることになるのも、御家再興にかかわる複雑な状況があるようだ。
 台州氏以降、その子盤谷氏も儒学者として大成し、全国に知れ渡るようになるのだが、それでも高子から動かなかったのには、その複雑な事情が絡んでいるように思われる。

 地域資料の多くは、これらの事には触れていないが、隠すべき事ではいのだと思う。むしろ、「非武士階級」の者が儒学者として大成し、それ以降も、高子という地域で高度な文化活動を行い、全国に発信し続けていたという特異性を誇るべきことの原動力になっているととらえるべきなのだと思うが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2016-12-23 09:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)