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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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高子から全国に発信される文学活動②~熊阪台州氏⑧

 今回熊阪氏の文学活動について整理をしておこうと思ったきっかけは、亀岡邸の見学時に高子に立ち寄ったことだ。
 「白雲館」跡地付近を写真に撮ったら、「何を撮っているの」との家人からの質問。これに、家に戻ってから応えると言ってはみたもののどう説明していいか分からない。
 よく案内されるように「高子20境」について語ったみたところで、それが何なのか分かってもらえるはずもない。一言で何と言ったら分かってもらえるかと思いめぐらす中で、とりあえず、この「高子から全国に発信される文学活動」拠点が「白雲館」だったとするのはどうかなということを思いついた。地元では、その説明のスタートに「白雲館」を創設した父覇陵氏を位置づけることが多い。しかし、これは、熊阪氏の活躍を既に知っていることが前提になっていることに気付いたという事でもある。
 高子の熊阪氏を知らない人には、そのスタートに熊阪台州氏を据えて、彼の才能が江戸の学者に認められる話をして、その才能が磨かれる拠点がこの「白雲館」だったというふうにした方が分かりやすいかな思ったのだ。
 その上で、この「白雲館」を創設したのは父覇陵氏であり、熊阪台州氏の志の跡をしっかり継いだのが息子の盤谷氏という話の流れで、熊阪氏を紹介してみようというということだ。

 そういう意味では、明治時代の文豪森鴎外氏が「西遊紀行」を参考文献として挙げているらしい情報にふれるのは、熊阪氏を知らない人も親しみを持ってもらえるかもしれないと思う。
 この情報を目にしたのは、「レファレンス協同データベース」の市川市の次のような事例だ。
 「森鴎外の「北游日乗」(鴎外全集第35巻 1971)に、真間の手児奈の祠に詣でた際の詩を挙げ、「てこな」とは「蝴蝶」のことであることを熊阪子彦の説によったと述べている。この熊坂子彦の説とはどのようなものであったのか知りたい」という問いだ。
 そこには、「最是傷情蝴蝶祠、熊阪子彦の説に氐胡奈とは蝴蝶の義なりといへるに據りたりとあり、万葉集に記される『真間の手児奈』のテゴナも蝶にちなむ名であろう」という記述があるようだ。

 「北游日乗」は森鴎外の日記であり、地域史家の人達は、地域の史跡等に森鴎外氏がどうかかわるかを確認するのにあたることが多いようだ。この場合も「真間の手児奈」に関する史跡に森鴎外が訪ねる痕跡を確認している中での問いなのだろうと思う。
 その内容について確認していきたいところだが、熊阪氏を知らない人に親しみを感じてほしいという観点からすれば、まずは、明治時代の文豪森鴎外氏が「西遊紀行(熊阪台州氏)」を参考文献と引いているということに注目したい。

 それで、「鴎外文庫データベース」で検索してみた。
 しかし、森鴎外氏の「西遊紀行(熊阪台州氏)」所蔵は確認できなかった。ただ、この出版に尽力いただいた松崎観海氏の「観海雑記」写本の所蔵は確認できた。
 この観海氏への関心を通して、明治時代の文豪森鴎外氏は「西遊紀行(熊阪台州氏)」を目にしていたという想像はどうだろうか。
 更に、明治時代の文学者の中では、「西遊紀行(熊阪台州氏)」は普通に目にふれていたというふうに想像を広げてもよさそうに思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2016-12-19 09:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)