地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏⑥

 台州氏が5月25日付第3書牘で送ることを告げた「西遊紀行」と「海左園稿」だが、その評価の返書が、翌明和3年5月13日付(継志編)とのことだ。
 そこには、「西遊紀行」を読むに及んで「其の人に従って其の地を踐むが如き」と健筆を認め、徂徠の「峡中紀行」・安藤東野の「遊相紀事」の後を承けるものと評価する。そして、これを「東都に携へて帰りて、諸氏に夸示せん」とまで称しているという。
 また、「海左園稿」については、台州氏の盛唐詩風の詩と覇陵の隠君子の風格ある詩との評価とのことだ。
 その心情を「観海先生集二」では、次のように詠じているとのこと。
  老夫平日喜交遊 老夫 平日 交遊ヲ喜ブ
  愛子文章揚馬流 愛ス子が文章 揚馬ノ流
  到処逢人使誇説 到ル処 人二途ウテ 便チ誇説ス
  津津極口不能休 津津トシテ ロヲ極メテ 休ムコト能ハズ

 これ以降の「西遊紀行」の刊行の経緯も、「『吾妻鏡補』と熊阪台州・盤谷(徳田武)」の読み取りをガイダンスに整理する。

 観海書牘の返書が、明和3年6月20日付第4書牘とのことだ。
 この中で、亡父の墓石をまだ立てていないことを述べていて、これが後で整理する「覇陵熊阪君墓碑」を撰する話につながる。
 また、その追伸で「西遊紀行」の巻頭に文字を与えるように依頼する。それにこたえたのが、明和6年8月24日の観海氏が「西遊紀行序」を撰することに繋がる。

 明和5年11月25日付第5書牘からは、観海氏の筆削に応じて「西遊紀行」を推敲し、再び斧正を求め、序文も乞うていることが読み取れるという。
 前述第4書牘、そして第5書牘で依頼に応じて観海氏が「西遊紀行序」が撰するのが明和6年8月24日。
 その序の中では、奥州の人材で最となすのは平野金華と大内熊耳だとし、台州の文才をこの二大名家に比肩させているという。

 その序が到着して狂喜するのが明和6年10月4日付第6書牘という。
 ここまでが、「西遊紀行」出版準備の一連の経緯の流れのようだ。この経緯の中でも、観海氏の 「東都に携へて帰りて、諸氏に夸示せん」が社交辞令の誉め言葉ではなく、実際にそうしていたことが、これらの活動の中で明らかになるようだ。

 「西遊紀行」は、それまで自費出版のつもりでいたようだが、書肆(しょし)が出資した出版になることが分かるのが、明和8年夏に書かれた観海氏宛ての第7書牘(継志編)という。

 疎い散歩人は、ここで「書肆(しょし)」の確認。
 辞書的には、書店、本屋だが、江戸期初め民間で出版活動がはじまってから明治初期までは、書肆=板元が編集から製作、卸、小売、古書の売買を一手におこなっていたとのことだ。したがって、現代風に言えば出版社、取次店、新刊本小売店、古書店の総称をさすようだ。

 「西遊紀行」の書肆は、江戸の申椒堂須原屋市兵衛であり、明和8年5月には刻板が完了し、出版願いが出されていたという。

 台州氏は、出版されたこの「西遊紀行」を、松崎観海氏、湯浅常山、野村東皐、稲垣白巌等に贈呈している。その授贈の返書からも、観海氏が「東都に携へて帰りて、諸氏に夸示せん」とした言葉通り、尽力していたことが伺えるということのようだ。
by shingen1948 | 2016-12-17 09:12 | Comments(0)