人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

熊阪台州氏⑤

 「伊達の香り」の「高子の熊阪氏と白雲館」によると、「海左園」は、自宅である白雲館の南西の山の斜面を活かして築いた枯山水の庭とのことだ。その理解図も示している。
 台州氏が「旧海左園記」で詳しく述べているとあるので、その考察をもとにしているものと思われる。

 自宅である白雲館を基準にすると、その左手の位置になるようだ。その奥が最も高い処になるようで、そこが「楽天塢」とのことだ。そこに、「其の南西、曲折する処、瀑布勢奇石聳える」との注釈がある。
 ここに上ると南白鷺峰・走馬嶺・?山・及返照原が見渡せ、他に石筍嶺や集真台と名付けた岩もあったと解説する。ここから遠望できる「20境」とのかかわりが解説されているということだ。
 「福島伊達の名勝「高子二十境」の項では、以下のような紹介になっている。
 覇陵の業績については、息子の台州が父を顕彰するために天明8年(1788)に出版した「永慕編」の「二十境記」や「先考覇陵山人行状」に詳しく記されている。
 「永慕編」には江戸の絵師谷文晁が描いた二十境の図と熊阪氏三代の60首の漢詩が掲載されている。そして、台州の呼びかけに応じて、全国の高名な文士たちから寄せられた「高子二十境」の格調高い漢詩群277首が後に「永慕後編」として文化元年(1804刊)に編集出版された。
 ただし、「永慕後編」の中では全ての二十境の漢詩が何の断りもなく《海左園二十境》と題されていて、誤解を与えている面がある。しかし、その謎は松浦著「高子二十境」で解明された。
 今のところ、その謎がどう解明されたかは知らない。

 「永慕編」の概要についての予備知識を、「岩瀬文庫蔵書」解説で確認する。
 晩年に丘壑を好んだ編者の亡父熊阪覇陵が、地元の高子村(現・福島県伊達郡保原町上保原)内外にある「二十境」を題した詩(五言絶句)に、子の邦(台州)とその子の秀(盤谷)の和韻詩を収めた詩集。
 各境を描いた山水画風の絵半丁各1図を配す。二十境は、丹露盤・玉兔巌・長嘯嶺・龍背巌・採芝崖・帰雲窟・将帰阪・貍首岡・隠泉・高子陂・不羈坳・拾翠崖・返照原・走馬嶺・白鷺峰・雩山・禹父山・愚公谷・白雲洞・古樵丘。巻末に「二十境詩二十首」等、熊阪台州の近作詩集を付す。
 巻頭に「先考覇陵山人行状」(明和4年8月、熊阪邦撰)、「覇陵熊阪君墓碣」(明和5年6月、松崎惟時撰)、「二十境記」(熊阪邦撰)あり。
 内題尾題下に「巻上」、柱刻に「上」とあるが、再識自序に「所以題巻端為上巻者。則欲得海内諸君子之賜。以為中下巻云爾…諸君子之賜。敢請庚戌(寛政2年)以為期」とあり、刊語口上文にある通り、広く海内の諸君子に「雄篇大作」の寄稿を求め、それを続刊の中下巻に収めようとしたもの。
 「永慕編」の中下巻にあたると思われる「永慕後編」を、同じく「岩瀬文庫蔵書」で確認すると、その上巻にあたる「永慕編」について、「熊阪台州編。天明8年刊で、先考熊阪覇陵の営んだ海左園の名勝「二十境」を題した諸家(貴人を含む)の詩集」と紹介している。
 ここでは、海左園 = 名勝「二十境」ととらえた紹介になっている。

  なお、地元福島県立博物館で、この「永慕編」の所蔵は確認できない。ただ、この項で解説される「西遊紀行(1771江戸 前川六左衛門)」は出版されることになるのだが、その上・中・下編すべてが所蔵していることは確認できる。
by shingen1948 | 2016-12-16 09:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)